「……まったく、慇懃無礼な奴らだ」
ひとつため息を漏らし、姫尚は労うように楽毅の肩にポンと手を置く。
「……ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
「お前が謝る必要など、何も無いだろう?」
「ですが、なぜあのようなことをおっしゃられたのですか? ご自身に責任があるなどと……」
「何もおかしいことは無いだろう。事実、私はお前の主であり、扶柳を任された責任者だったのだから」
「違います! これは、すべてわたしの責任……わたしの問題なのです‼」
「楽毅ッ‼」
これ以上言わせまいと、姫尚は楽毅の両肩をグッと掴み、その華奢な体をグイッと引き寄せる。
間近にある目が──鮮やかな光彩を放つ鳶色の瞳が楽毅をまじまじと見すえる。
まるで心まで呑みこまれてしまいそうな、そんな妖しい美しさに、楽毅は思わずじっと見とれてしまう。
「もういい。お前はよくやってくれている。これ以上自分を責めるな。すべてを背負いこもうとするな。ひとりで何もかもをかかえこもうとするな!」
姫尚は諭すように言うと、更に楽毅の体を引き寄せ、強く抱き締めた。
男の厚い胸板が彼女の頭を支え、男の逞しい腕が背中を包みこむ。
突然の抱擁に楽毅は戸惑い、頭の中が真っ白になってしまう。ただ、そこから感じる陽だまりのような暖かさと、清流のような爽やかさは、彼女にとってとても心地のよいものだった。
「お前は、私を護ると言ってくれた。とても感謝している。だから……私もお前を護りたい。お前の力になりたいと思っている。だから、少しは私を頼ってくれ」
甘く優しい声色が、そよ風のように耳朶をくすぐる。
「た、太子……」
主と臣下が近過ぎる関係になってはいけない。そう自らを戒める楽毅であったが、その気持ちとは裏腹に胸の鼓動は早さを増し、顔が、体中が滾るように熱く火照ってゆくのを止めることは出来なかった。
「聞いてほしい、楽毅。私は……お前のことが好きだ。ひとりの女性として、愛おしく思っている」
「……え?」
突然の告白に楽毅は思わず、心臓が止まりそうなほどの衝撃を感じた。
主君と家臣がそのような情に溺れる事は、決してあってはならない。しかし、彼女の心の中で、それとは別の感情がわずかに揺らいでいるのに気づいた。
同時に、顔に当てられた彼の胸板からも、心臓が早鐘を打っているがハッキリと伝わる。
「こんな時に言う言葉では無い、とわかっている。しかし、こんな時だからこそ伝えておきたかった。私もお前も、いつ死んでもおかしくない、こんな時だからこそ……」
「太子……」
楽毅は、その優しい束縛に抗うことが出来なかった。というよりも、父の死さえ、まだ受け入れられていないこの状況下では、霧がかったように頭の中がモヤモヤとして、何も考えることが出来なかった。
──私は……どうなのだろう?
楽毅はこれまで、恋愛というものを経験したことが無かったため、色恋がどういうものなのかわからないでいた。だから、姫尚に対しては尊敬すべき主君という思いだけで、これまで仕えてきた。
しかし、今胸の中にこみ上げて来るこの熱い思いは何なのだろう?
苦しくて、切なくて、だけど、温かくて──
「わ……わたしは……」
「よい。胸に留めておいてほしい。ただ、それだけなのだ」
姫尚はおもむろに彼女を解放すると、ほほ笑みと共に言った。
その実、姫尚は楽毅を妃として欲していた。常に自分の側にいてほしい。お互いに支え合っていきたい。
しかし、彼女が武霊王からの同様の誘いを断ったという話を聞いた時から、それは極めて可能性の低い望みである事を了解していた。
だから、彼はそれ以上何も求めること無く、その場を後にした。
彼女の気持ちを慮って。
──いや、違う。
自分は楽毅を利用しているだけなのだ、と彼は自戒した。本当に彼女を気づかうのであれば、こんな時に──彼女が一番苦しんでいる時に身勝手な告白などするはずがないのだ。
忠臣でありよき相談役でもあった楽峻を失った痛手は、筆舌に尽くしがたい。しかし、だからこそ楽毅の力が必要なのだ。これまで以上に彼女にかかる負担は大きくなるだろう。いや、間違い無くそうなる。強大な【趙】軍に立ち向かうためには、楽毅に早く立ち直ってもらわなければならない。だから、彼女には悲しみにも勝る衝撃が必要だと思った。毒を以って毒を制す──そんな衝撃療法が。
──我ながら、最低だな。
楽毅をひとりの女性として愛する気持ちに、偽りは無かった。しかし、それだけに、自分の気持ちの裏にある打算的かつ陋劣な部分が余計に浮き彫りになって、ますます虚しくなるだけだった。
しかし──
「それでいい。今は、それで……」
立ち止まり、朱に染まる空を見上げて、姫尚はひとりごちた。