【中山国】の太子である姫尚は、ひとつの決心を胸に抱いていた。
しかし、ある女性の宿舎の前まで来ると彼は迷い、逡巡していた。
彼女は昨日に父親を亡くし、愁傷のただ中にあった。彼はその場に立ち会うのを遠慮していたが、伝え聞いた話では相当泣き崩れていたそうだ。
そんな精神状態にある時に、果たして自分の都合で逢いに行ってよいのだろうか?
それに自分自身、頼りにしていた忠臣を失い、辛い心中にあるのだ。
──しかし、伝えなければならない。伝えなければ……。
言い聞かせるように心を決め、宿舎に足を踏み入れようとした、その時だった。
ズカズカという乱暴な足音が廊下に響き、三人の兵士が彼のいる方へやって来る。赤い甲冑などから同じ【中山国】の兵士には違い無かったが、見る者すべてを威圧するような空気をまとっていることから、恐らく【中山】王直々の使者であろう。
彼らは目の前にいる姫尚を一瞥することも無く、彼女の──楽毅の宿舎へと入ってゆくのだった。
気になった姫尚もその後に続いた。
中では、昨日と変わらず椅子に腰かけたまま父の亡骸を見つめる楽毅の後ろ姿があった。
その楽峻の顔は、今は白い布に覆われている。
「貴様が楽毅だな?」
入るや否や兵士たちは、高圧的な口調を浴びせた。
しかし、彼女は背中をやや丸めた姿勢のまま、何の反応も示さない。
「貴様、聞こえないのか⁉」
語気を荒げた男たちは、彼女の肩に掴みかかろうと手を伸ばす。
「お前たち、やめるんだ!」
姫尚はとっさに叫んだ。
兵士たちはピクリと反応し、ゆっくり振り返ると、
「これはこれは。太子におかれましてはご機嫌麗しゅうございます」
人を食ったような不遜な態度で、姫尚を嘲笑する。
「楽毅は今、話せるような心境ではない。要件なら代わりに私が聞こう」
「そうは参りませんよ、太子。我々は楽毅本人に用があるのですから」
「何だと?」
兵士たちは憤る姫尚を無視して楽毅の方に向き直り、
「楽毅よ。反逆罪の容疑で王陛下よりお召しがかかっている。我々と共に出頭するのだ!」
声高に叫んだ。
「反逆罪? 楽毅が? お前たち、いったい何を言っているのだ⁉」
思いも寄らぬ言葉に、姫尚は激怒した。
兵士たちは億劫そうにひとつため息を吐くと、仕方ないとばかりに話し始めた。
「……貴方もお分かりでしょう? 楽毅は敵である【斉】と内通し、一戦も交えることも無く扶柳の邑を売り渡した。これは明らかなる売国行為です」
「それは……たしかに、私たちは扶柳城を明け渡した。しかし、それによって【斉】軍は動きを止め、私たちは【趙】軍に集中出来るようになったのだ」
「しかし、妙ではありませんか? 【斉】軍が扶柳ひとつで侵略を止めるという保証などどこにも無いはずなのに、なぜ楽毅はあっさりと扶柳を明け渡すよう進言し、【斉】軍も律儀にその条件を呑んだのか……」
「それは……」
姫尚は、それ以上弁明出来なかった。
楽毅は斉(せい)に留学していたことがあり、そこで【斉】の宰相である孟嘗君とも懇意にしていたと彼は聞いていた。だから、楽毅が孟嘗君の使いに逢い、今回のような交渉を提案してきた時も、彼は無条件でそれを信じることが出来た。
しかし、【斉】をとことん嫌い抜き、姫尚や楽毅に対して猜疑心を抱いている【中山】王にとっては、それらの行為は不愉快極まり無いことなのだろう。
「楽毅は憎き【斉】に留学したことがあり、その時にすでに国家機密を売り、敵と内通していた可能性があるのです」
「ならば……ならば、私も連れてゆけ! 楽毅は私の配下だ。それに私は扶柳をあずかる責任者でもあった。罰するには充分な理由であろう⁉」
「っ!」
姫尚の言葉に、楽毅はピクリと体を揺らす。
「……それは殊勝な心がけですな、太子。実は王陛下より、貴方がもし逆らうようであれば一緒に連行してもよい、と仰せつかっておりましてな」
「好きにするがいい!」
お互い睨み合い、一触即発となる。
「それには及びませんッ!」
その時、楽毅が勢いよく立ち上がり、叫んだ。
「此度のことはすべてわたしの主導で行いました。言い訳するつもりはございません。大人しく霊寿に参りましょう……」
「しかし、楽毅──」
手を正面に突き出して姫尚の言葉を制し、楽毅は兵士たちをキッと見すえると、
「ただし、わたし共はこれより喪に服します。出頭するのは喪が明けてからとなりますので、王陛下にはそうお伝えくださいませ」
ハッキリと言い放った。
「な、なんだと? では、貴様はそれまで待てと申すのか⁉」
「ええ、その通りです」
「貴様、ふざけ──」
兵士たちは、楽毅の突き刺すような鋭い視線を浴び、思わず怯んだ。
それはとても無機質な冷たさを備えており、死をも厭わない覚悟を感じさせるものだった。
「そういうことだ、お前たち。私も喪が明けたら楽毅と共に霊寿に赴く。父上にはそう伝えるがよい」
楽毅に同調して姫尚がすごむ。
「……くっ、後悔させてやるぞ!」
最後は二人の気迫に圧され、兵士たちは帰りしなに捨てゼリフを残してすごすごと退散してゆくのだった。