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第7話 私も連れてゆけ

 【中山国ちゅうざんこく】の太子たいしである姫尚きしょうは、ひとつの決心を胸に抱いていた。


 しかし、ある女性の宿舎の前まで来ると彼は迷い、逡巡しゅんじゅんしていた。

 彼女は昨日に父親を亡くし、愁傷しゅうしょうのただ中にあった。彼はその場に立ち会うのを遠慮していたが、伝え聞いた話では相当泣き崩れていたそうだ。


 そんな精神状態にある時に、果たして自分の都合で逢いに行ってよいのだろうか?

 それに自分自身、頼りにしていた忠臣を失い、辛い心中にあるのだ。


 ──しかし、伝えなければならない。伝えなければ……。


 言い聞かせるように心を決め、宿舎に足を踏み入れようとした、その時だった。

 ズカズカという乱暴な足音が廊下に響き、三人の兵士が彼のいる方へやって来る。赤い甲冑などから同じ【中山国ちゅうざんこく】の兵士には違い無かったが、見る者すべてを威圧するような空気をまとっていることから、恐らく【中山ちゅうざん】王直々の使者であろう。


 彼らは目の前にいる姫尚きしょう一瞥いちべつすることも無く、彼女の──楽毅がくきの宿舎へと入ってゆくのだった。

 気になった姫尚もその後に続いた。


 中では、昨日と変わらず椅子に腰かけたまま父の亡骸を見つめる楽毅がくきの後ろ姿があった。

 その楽峻がくしゅんの顔は、今は白い布に覆われている。


「貴様が楽毅がくきだな?」


 入るや否や兵士たちは、高圧的な口調を浴びせた。

 しかし、彼女は背中をやや丸めた姿勢のまま、何の反応も示さない。


「貴様、聞こえないのか⁉」


 語気を荒げた男たちは、彼女の肩に掴みかかろうと手を伸ばす。


「お前たち、やめるんだ!」


 姫尚きしょうはとっさに叫んだ。

 兵士たちはピクリと反応し、ゆっくり振り返ると、


「これはこれは。太子たいしにおかれましてはご機嫌麗しゅうございます」


 人を食ったような不遜な態度で、姫尚きしょう嘲笑ちょうしょうする。


楽毅がくきは今、話せるような心境ではない。要件なら代わりに私が聞こう」

「そうは参りませんよ、太子たいし。我々は楽毅がくき本人に用があるのですから」

「何だと?」


 兵士たちはいきどお姫尚きしょうを無視して楽毅がくきの方に向き直り、


楽毅がくきよ。反逆罪の容疑で王陛下よりお召しがかかっている。我々と共に出頭するのだ!」


 声高に叫んだ。


「反逆罪? 楽毅がくきが? お前たち、いったい何を言っているのだ⁉」


 思いも寄らぬ言葉に、姫尚きしょうは激怒した。

 兵士たちは億劫おっくうそうにひとつため息を吐くと、仕方ないとばかりに話し始めた。


「……貴方もお分かりでしょう? 楽毅がくきは敵である【せい】と内通し、一戦も交えることも無く扶柳ふりゅうまちを売り渡した。これは明らかなる売国行為です」

「それは……たしかに、私たちは扶柳ふりゅう城を明け渡した。しかし、それによって【せい】軍は動きを止め、私たちは【ちょう】軍に集中出来るようになったのだ」

「しかし、妙ではありませんか? 【せい】軍が扶柳ふりゅうひとつで侵略を止めるという保証などどこにも無いはずなのに、なぜ楽毅がくきはあっさりと扶柳ふりゅうを明け渡すよう進言し、【せい】軍も律儀にその条件を呑んだのか……」

「それは……」


 姫尚きしょうは、それ以上弁明出来なかった。

 楽毅がくきは斉(せい)に留学していたことがあり、そこで【せい】の宰相さいしょうである孟嘗君もうしょうくんとも懇意にしていたと彼は聞いていた。だから、楽毅がくき孟嘗君もうしょうくんの使いに逢い、今回のような交渉を提案してきた時も、彼は無条件でそれを信じることが出来た。


 しかし、【せい】をとことん嫌い抜き、姫尚きしょう楽毅がくきに対して猜疑心さいぎしんを抱いている【中山ちゅうざん】王にとっては、それらの行為は不愉快極まり無いことなのだろう。


楽毅がくきは憎き【せい】に留学したことがあり、その時にすでに国家機密を売り、敵と内通していた可能性があるのです」

「ならば……ならば、私も連れてゆけ! 楽毅がくきは私の配下だ。それに私は扶柳ふりゅうをあずかる責任者でもあった。罰するには充分な理由であろう⁉」

「っ!」


 姫尚きしょうの言葉に、楽毅がくきはピクリと体を揺らす。


「……それは殊勝な心がけですな、太子たいし。実は王陛下より、貴方がもし逆らうようであれば一緒に連行してもよい、と仰せつかっておりましてな」

「好きにするがいい!」


 お互い睨み合い、一触即発となる。


「それには及びませんッ!」


 その時、楽毅がくきが勢いよく立ち上がり、叫んだ。


此度こたびのことはすべてわたしの主導で行いました。言い訳するつもりはございません。大人しく霊寿れいじゅに参りましょう……」

「しかし、楽毅がくき──」


 手を正面に突き出して姫尚きしょうの言葉を制し、楽毅がくきは兵士たちをキッと見すえると、


「ただし、わたし共はこれよりに服します。出頭するのはが明けてからとなりますので、王陛下にはそうお伝えくださいませ」


 ハッキリと言い放った。


「な、なんだと? では、貴様はそれまで待てと申すのか⁉」

「ええ、その通りです」

「貴様、ふざけ──」


 兵士たちは、楽毅がくきの突き刺すような鋭い視線を浴び、思わずひるんだ。

 それはとても無機質な冷たさを備えており、死をもいとわない覚悟を感じさせるものだった。


「そういうことだ、お前たち。私もが明けたら楽毅がくきと共に霊寿れいじゅおもむく。父上にはそう伝えるがよい」


 楽毅がくきに同調して姫尚きしょうがすごむ。


「……くっ、後悔させてやるぞ!」


 最後は二人の気迫にされ、兵士たちは帰りしなに捨てゼリフを残してすごすごと退散してゆくのだった。

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