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第5話 一番伝えたかったこと

 昔陽せきようまち東垣とうえんから東に向かった先にある要所であり、国都である霊寿れいじゅとはほぼ逆方向となる。


 ツェイには聞きたいことが山ほどある。しかし、今は急がねばならなかった。

 楽毅がくきたちは扶柳ふりゅうから連日駆けてきた疲れなど微塵も見せず、東垣とうえんから昔陽せきようまでをわずか一日という奇跡的な速さで到達してみせた。


 【ちょう】軍は西の方に集中しているためにまだここまで手は伸びておらず、楽毅がくきたちは颯爽さっそうと城門を駆け抜けた。

 広めの宿舎に通されるとすぐに、全身に包帯を巻かれた痛々しい姿でベッドに横たわる男が視界に入った。


「父上!」


 楽毅がくきは勢いよく飛びこみ、悲痛な声でその男に呼びかける。楽乗がくじょう楽間がくかんツェイもその後に続く。


「……お前……たち。よかった……間にあった」


 楽峻がくしゅんは視線だけをそちらに向け、ゼェゼェという荒い呼吸と共に、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。


「父上……。父上ぇぇぇぇぇ!」


 おそらくもう助からない。そんな残酷な現実を目の当たりにした楽毅がくきたちは、あふれる涙を抑え切れないまま、その体にすりついた。


楽間がくかん。そして楽毅がくきよ……お前たちに伝えなければならないことが……ある」


 彼は最後の力を振りしぼって上半身を起こす。


「父上、ムリはなさらず──」


 その背中に手を触れた瞬間、ぬめりとした不快な感触が襲う。

 その時、楽毅がくきたちはベッドに敷かれた布にべっとりと染みついた赤黒い染みと、幾重にも巻かれた包帯越しに真っ赤に染まった、楽峻がくしゅんの背中を目にする。


「私のことは……もうよい。それより、話を……聞くのだ」


 寝かしつけようとする楽毅がくきの肩に手を置き、必死の形相を向ける。

 少しでも長く生きてほしいと願う楽毅がくきであったが、彼が必死の思いで何かを伝えようとしていることを察し、コクリとうなずいた。


「……私が伝えたいのは、お前たちの……母親のことだ」

「母上?」


 軽くうなずき、話を続けた。


「お前達の母親・赤蘭せきらんは……本当の名をスタテイラという。スタテイラと出会ったのは……今から十八年前の事だ。所用で北の遊牧民族──匈奴きょうどの元を訪れた際に、そこに滞在していた彼女と出逢ったのだ……」


 そして楽峻がくしゅんは、懐から何かを取り出す。

 それはコの字に似た奇妙な形をした宝珠だった。楽毅がくきの髪と同じ、燃えるような紅い色をした宝珠。

 楽毅がくきはそれに見覚えがあった。いや、正確に言えばそれに似たものを見たことがある。それも、二度だ。


 ──孟嘗君もうしょうくん。それに武霊王ぶれいおうが持っていたものと似ている。


 いや、色こそ違えど、それは不思議な力を宿している【八紘はっこうの宝珠】と呼ばれる宝玉と同じものだ、と彼女は直感した。


「彼女は……この宝珠を持っていた。人智を超えた力を秘めるという、この宝珠を。しかし……これを持っていたがゆえに彼女は命を狙われ、ずっと……逃げ続けていた。そして、私は彼女を保護した。初めは小さな義侠心からだったが、私は少しずつ彼女を愛するようになり、彼女も……私を愛してくれた。そして、お前たちが生まれた……」


 楽峻がくしゅんは、子供たちの頬をそっとで、優しくほほ笑んだ。


「……父上。なぜ、母上はその宝珠を持っていたのですか? そのせいで命を狙われたのでしょう?」

「……その答えは、スタテイラの素性にある。そして、それこそ、お前たちに一番伝えたかったこと……」


 ひとつ深呼吸を置き、覚悟を宿した強い瞳で、楽峻がくしゅんは続けた。


「お前たちの母は……スタテイラは……かの征服王・アレクサンドロス大王の……娘なのだ……」


「えっ⁉」


 衝撃の告白に、そこにいた誰もが絶句した。

 母であるスタテイラがアレクサンドロス大王の娘ならば、その子である楽毅がくき楽間がくかんもアレクサンドロス大王の血を継ぐ者ということになる。


 ──わたしたちが……アレクサンドロス大王の……孫?


 突然突きつけられたあまりにも重大な事実に、楽毅がくきは頭の整理が追いつかなかった。


 そんな子供たちの気持ちをおもんぱかりながらも、伝えなければならないという使命感から、楽峻がくしゅんは話を続けた。


「……だから驚いたよ。お前が密集方陣ファランクスを……馬其頓マケドニアで用いられていた陣形を用いたと聞いた時には。やはり血族なのだ、と……」


 楽毅がくきは、何か言わなければと、無意識の内に口を動かしていた。しかし、

 瀕死の父──

 明かされる母の素性──

 迫りくる【ちょう】軍への対抗策──


 様々な現実が彼女の胸の中で交錯し、こごり、おりとなって彼女の心を束縛するのだった。

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