扶柳は無血開城し、そこに【斉】軍が入る運びとなった。
孟嘗君からの通達通り、【斉】軍はそのまま扶柳に留まり、それ以上進軍することは無かった。
これにより【中山】軍は東からの脅威を気にすること無く、【趙】軍との戦いに専念出来るようになったのだ。
扶柳にいた五千の【中山】兵は、一路東垣を目指し、全力で駆けていた。東垣に着けば、籠城している味方と連携して敵兵を挟撃出来る。誰もがそう思っていた。
しかし、楽毅にはひとつの懸念があった。それは、田単からもたらされた書簡にあった。
──趙奢が……趙奢が帰国していた。
焦燥が胸の奥で烈しく渦巻く。
「楽毅お姉様。先ほどの書簡には何と書かれていたのですか?」
馬を並走させながら楽乗が問う。
「……趙奢が、この戦いに関わっている可能性があります」
「趙奢……。たしか、お姉様のご学友でしたか? やはり、お知り合いと相対されるのは心苦しいですよね」
「ええ、それもあるのですが……」
楽毅は憂苦に目を伏せる。
楽乗の言う通り、親友と戦う心苦しさもあった。しかし、楽毅が一番懸念しているのは、趙奢の存在によって戦況が大きく変わってしまうことにあった。
田単からの書簡によれば、先の戦いによって父である趙与が負傷したことを知った趙奢は帰国を決意し、既に晩秋の内に臨淄を去ったとのことであった。
──初冬に【趙】に戻っていたとしたら……ギリギリ完成しているころかしら。
楽毅は恐れていた。
趙奢の才能を──
彼女の発明したものが戦場で実用化されることを──
こと、趙奢は攻城兵器と火器の発明に力を入れていた。臨淄にいたころに彼女自身からよくその話を聞いており、まだ構想段階だったとはいえ、設計図も描いていた。もしそれが完成したなら、攻城戦どころか戦そのものの様相が一変してしまうとさえ、楽毅は思っていた。
──父上……。
得も言われぬ不安が襲う。
手綱を強く握り、楽毅は祈るような思いで疾走した。
扶柳を発った五千の【中山】兵は三日三晩、ほとんど休むこと無く走り続けた。
──この峠を越えれば、東垣だわ。
しかし、最後の勾配を登り終えたその先に見えたものは、瓦礫となって全壊した無残な城跡だった。
「こ、これは……」
ようやく辿り着いた東垣は、もはや廃墟であった。城壁は跡形もなく倒壊しており、民家など城内にあった建造物の全てが黒い消し炭と化していた。
楽毅たち【中山】軍は、その無残な光景を絶望の眼差しで見つめていた。
「……遅かった」
楽毅は唇を噛み締めた。
当初の予想では、どんな猛攻にあったとしても東垣はひと月以上はもつ、と踏んでいた。しかし現実は、半月と経たずに完膚なきまでに叩き伏せられてしまった。堅固を誇る城壁がここまで無残に崩壊していることからも、誤算の原因は趙奢の発明した兵器であるのは明白であった。
落城からある程度経過しているようで、周辺に敵兵の姿は無く、火の手も完全に消え失せていた。
「なんと惨いことを……。【趙】軍はここまで鬼畜であったか」
怒気を含んだ声で、楽乗が呟く。
そこには【墨家】や【中山】軍の兵士のみならず、民までもが全て惨殺され、芥の如くそこかしこに転がっていた。
──父上……。
楽毅は逸る鼓動を必死に抑えながら、父の姿を探し求めた。しかし、遺体は異常なまでに切断されていたり延焼していたりしており、顔の判別さえままならないものばかりであった。
「楽毅姉さん……」
刹那、風と共にひとりの少女が現れる。それは、戦前に姿を眩ましていた翠であった。
楽毅たちは驚きのあまり、しばらく呆然としてしまう。
「……翠、お前いったい今までどこに行って──」
楽乗の言葉を制するように、楽毅はさり気なく楽乗に体を寄せる。
「よかった……。無事だったのですね?」
「……ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
片膝をついた姿勢のまま、深々と頭を下げる翠。
「楽峻様は今、昔陽に避難しております」
「父上はご無事なのですか!?」
声を弾ませる楽毅。しかし、翠は無表情のまましばらく黙していた。
「楽峻様は……お父君は背中に深い傷を負われ、明日をも知れぬ状態でございます」
「そんな……」
翠からもたらされた報に絶句する楽毅たち。
「どうかお急ぎください」
立ち上がり歩き出す翠。その背中が小さく霞ゆくころ、まるで夢遊病者のような魯鈍な所作で、ようやく楽毅は動き出した。