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第4話 ここまで鬼畜であったか

 扶柳ふりゅうは無血開城し、そこに【せい】軍が入る運びとなった。


 孟嘗君もうしょうくんからの通達通り、【せい】軍はそのまま扶柳ふりゅうに留まり、それ以上進軍することは無かった。

 これにより【中山ちゅうざん】軍は東からの脅威を気にすること無く、【ちょう】軍との戦いに専念出来るようになったのだ。


 扶柳ふりゅうにいた五千の【中山ちゅうざん】兵は、一路東垣とうえんを目指し、全力で駆けていた。東垣とうえんに着けば、籠城している味方と連携して敵兵を挟撃出来る。誰もがそう思っていた。

 しかし、楽毅がくきにはひとつの懸念があった。それは、田単でんたんからもたらされた書簡にあった。


 ──趙奢ちょうしゃが……趙奢ちょうしゃが帰国していた。


 焦燥が胸の奥ではげしく渦巻く。


楽毅がくきお姉様。先ほどの書簡には何と書かれていたのですか?」


 馬を並走させながら楽乗がくじょうが問う。


「……趙奢ちょうしゃが、この戦いに関わっている可能性があります」

趙奢ちょうしゃ……。たしか、お姉様のご学友でしたか? やはり、お知り合いと相対あいたいされるのは心苦しいですよね」

「ええ、それもあるのですが……」


 楽毅がくきは憂苦に目を伏せる。

 楽乗がくじょうの言う通り、親友と戦う心苦しさもあった。しかし、楽毅がくきが一番懸念しているのは、趙奢ちょうしゃの存在によって戦況が大きく変わってしまうことにあった。


 田単でんたんからの書簡によれば、先の戦いによって父である趙与ちょうよが負傷したことを知った趙奢ちょうしゃは帰国を決意し、既に晩秋の内に臨淄りんしを去ったとのことであった。


 ──初冬に【ちょう】に戻っていたとしたら……ギリギリ完成しているころかしら。


 楽毅がくきは恐れていた。

 趙奢ちょうしゃの才能を──

 彼女の発明したものが戦場で実用化されることを──


 こと、趙奢ちょうしゃは攻城兵器と火器の発明に力を入れていた。臨淄りんしにいたころに彼女自身からよくその話を聞いており、まだ構想段階だったとはいえ、設計図も描いていた。もしそれが完成したなら、攻城戦どころか戦そのものの様相が一変してしまうとさえ、楽毅がくきは思っていた。


 ──父上……。


 得も言われぬ不安が襲う。

 手綱たづなを強く握り、楽毅がくきは祈るような思いで疾走した。



 扶柳ふりゅうった五千の【中山ちゅうざん】兵は三日三晩、ほとんど休むこと無く走り続けた。


 ──この峠を越えれば、東垣とうえんだわ。


 しかし、最後の勾配を登り終えたその先に見えたものは、瓦礫となって全壊した無残な城跡だった。


「こ、これは……」


 ようやく辿り着いた東垣とうえんは、もはや廃墟であった。城壁は跡形もなく倒壊しており、民家など城内にあった建造物の全てが黒い消し炭と化していた。

 楽毅がくきたち【中山ちゅうざん】軍は、その無残な光景を絶望の眼差しで見つめていた。


「……遅かった」


 楽毅がくきは唇を噛み締めた。

 当初の予想では、どんな猛攻にあったとしても東垣とうえんはひと月以上はもつ、と踏んでいた。しかし現実は、半月と経たずに完膚なきまでに叩き伏せられてしまった。堅固を誇る城壁がここまで無残に崩壊していることからも、誤算の原因は趙奢ちょうしゃの発明した兵器であるのは明白であった。


 落城からある程度経過しているようで、周辺に敵兵の姿は無く、火の手も完全に消え失せていた。


「なんとむごいことを……。【ちょう】軍はここまで鬼畜であったか」


 怒気を含んだ声で、楽乗がくじょうつぶやく。

 そこには【墨家ぼっか】や【中山ちゅうざん】軍の兵士のみならず、民までもが全て惨殺され、あくたごとくそこかしこに転がっていた。


 ──父上……。


 楽毅がくきはやる鼓動を必死に抑えながら、父の姿を探し求めた。しかし、遺体は異常なまでに切断されていたり延焼していたりしており、顔の判別さえままならないものばかりであった。


楽毅がくき姉さん……」


 刹那、風と共にひとりの少女が現れる。それは、戦前に姿をくらましていたツェイであった。

 楽毅がくきたちは驚きのあまり、しばらく呆然としてしまう。


「……ツェイ、お前いったい今までどこに行って──」


 楽乗がくじょうの言葉を制するように、楽毅がくきはさり気なく楽乗がくじょうに体を寄せる。


「よかった……。無事だったのですね?」

「……ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」


 片膝をついた姿勢のまま、深々と頭を下げるツェイ


楽峻がくしゅん様は今、昔陽せきように避難しております」

「父上はご無事なのですか!?」


 声を弾ませる楽毅がくき。しかし、ツェイは無表情のまましばらく黙していた。


楽峻がくしゅん様は……お父君は背中に深い傷を負われ、明日をも知れぬ状態でございます」

「そんな……」


 ツェイからもたらされたしらせに絶句する楽毅がくきたち。


「どうかお急ぎください」


 立ち上がり歩き出すツェイ。その背中が小さく霞ゆくころ、まるで夢遊病者のような魯鈍ろどんな所作で、ようやく楽毅がくきは動き出した。

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