その日の夜──

　楽毅がくきは自身の宿舎で地図を広げ、それをじっと俯瞰ふかんしていた。

　【趙ちょう】軍、【中山ちゅうざん】軍、【斉せい】軍に見立てた木製の駒を配置し、それを動かして頭の中で模擬戦闘シミュレートしてみる。様々な事象を想定し、何度も何度も繰り返してみたが、やはりどうあがいても戦況は好転しない。

　【中山国ちゅうざんこく】の総兵力は三万。対して趙は今回も武霊王ぶれいおうが自みずから指揮する十五万もの大軍。

　──やはり、【斉せい】軍の動きが大きなカギになるわね。

　首を上にかたむけ、陰鬱のこもったため息をひとつ吐く。

　出来れば【斉せい】兵とは戦いたくない。楽毅がくきの兵法の師でもある孫翁そんおう──大軍師・孫臏そんぴんが、見事に鍛え上げた精鋭だ。今は【趙ちょう】軍ほどの統率力は無いものの、交戦すれば戦力の消耗は避けられないだろう。

「ん？」

　その時だった。視界の先に映る天井の暗がりの中で、同色の黒い影のようなものがゆらりと、幽かすかに蠢うごめいたように感じた。

「……誰かいるのですか？」

　暗闇に向けて問うその声は、楽毅がくき自身が驚くほどに冷静であった。

「……驚きました。気づかれたのは初めてです」

　風のように涼やかな男の声と共に、天井の影はハッキリ認識出来るほどにゆらめく。と同時に部屋を照らしている灯火が風に揺れる。

「お久し振りでございます、楽毅がくき様」

　今度は楽毅がくきのすぐ側で、先ほどと同じ低い声が発せられる。たった一秒にも満たない刹那、黒い影は天井から楽毅がくきの脇まで移動したのだ。

　全身黒ずくめ──

　筋骨隆々の巨躯きょく──

　陰鬱を帯びた顔のその男を、楽毅がくきは以前見たことがある。

「アナタはたしか、孟嘗君もうしょうくんのお屋敷にいた……」

　臨淄りんしを発たつ前に孟嘗君もうしょうくんの屋敷を訪ねた際、案内をしてくれた男であるのを思い出した。

「覚えていてくださり光栄です。私は狼ろうと申します」

「よくここまで入ってこれましたね。警備は万全を期していたはずなのですが」

　風をまとった男は、片膝をついた状態のまま、ほのかに笑った。

「万全……だからこそ、動きが読まれやすいこともございます」

「なるほど、万全は決して完璧ではない……。肝に命じておきます」

　楽毅がくきは苦笑し、おもむろに立ち上がる。明り取りの側まで歩み、外へと目を向ける。夜空に浮かぶ満月が黄金の眼となって楽毅がくきを淡いヴェールで包み込むと、紅い長髪が炎をまとったように煌きらめいた。

　それで、と言って楽毅がくきは視線を宙に向けたまま、

「孟嘗君もうしょうくんは何とおっしゃっておりましたか？」

　涼やかに問うた。

「……【斉せい】は、【趙ちょう】からの要請に呼応し、　【中山国ちゅうざんこく】に兵ニ万を差し向けました。目標はここ、扶柳ふりゅう。到着はおよそ十日後になります」

　狼ろうと名乗った男は、淡々と述べた。

「ニ万……。【斉せい】王は　【中山国ちゅうざんこく】遠征にそれほど乗り気ではないようですね」

　それは、楽毅がくきが想定していたよりも少ない兵力だった。しかし、わずか五千しかいない扶柳ふりゅうの軍だけでは苦しい戦いになることに変わりは無かった。

「はい。そして、これからが我が主のお言葉になります」

　この男は孟嘗君もうしょうくんの食客ファンであり、主とは孟嘗君もうしょうくんのことに他ならない。

「【斉せい】は　【中山国ちゅうざんこく】に兵を向けるが、蹂躙じゅうりんするつもりは無い。しかし、【趙ちょう】との兼ね合いもあり、手をこまねいている訳にもいかない。よって、【斉せい】軍は扶柳ふりゅう一城のみを攻略することと決めた。勝算の無い戦はくれぐれも避けるように……とのことでございます」

「……なるほど。たしかに、勝算の無い戦は避けなければなりません」

　楽毅がくきは、大人しく扶柳ふりゅうを明け渡すように、ということだとすぐに理解した。

　扶柳ふりゅうひとつで【趙ちょう】への体裁ていさいを保ち、なおかつ【斉せい】王を納得させるための処置なのだ、と。

「すぐに太子たいしと相談致します。返答をお待ちになられますか？」

「いいえ、すぐに【斉せい】へ戻ります」

「分かりました。どうか、孟嘗君もうしょうくんによろしくお伝えください」

「……かしこまりました」

　そう言い残し、男は風と共にその姿を消した。

「……孟嘗君もうしょうくんはやはり、恐ろしいお方だわ」

　変わらぬ心づかいに感謝すると同時に、もしも、狼ろうが敵の刺客だったらと思うと、背筋にぞくりと寒気が走るのだった。