一面を覆い尽くした積雪が姿を消し、大地に春の息吹きが散見されるころ──
【趙】軍は【中山国】への進軍を再開すると、武霊王の獰猛さを体現するように【中山】領を次々と併呑していった。
【中山】王は、戦闘──特に守城戦に長けた集団・【墨家】に援助を要請し、これを招き入れていた。
【墨家】は、その教祖とも言うべき墨子の教えを遵守し、鉅子と尊称される指導者の元で“反戦”と“博愛”を旗印に掲げ、強きを挫いて弱きを助ける義侠の徒として知られている。
しかし、その反面で苛烈さを持ち合わせており、守るべき城が落城する時は、【墨家】はその責任を負ってすべて自害するほどだ。特に最近ではあたら武力の向上を図り、戦を余計にこじらせて被害をいたずらに拡大させている、というのが実情であった。
そのために、【墨家】の象徴である太極図が刻まれた白装束を見ると、人々は畏怖を禁じ得ないのだった。
【中山】王が招聘した五百人の【墨家】は、南方の要所である東垣と、国都である霊寿にそれぞれ配置された。
一方、【中山】王によって将軍職を剥奪されてしまった楽毅は、太子・姫尚の一配下として、霊寿より遥か南東に離れた扶柳という城に五千の兵と共にいた。配置場所や与えられた兵数からも、太子と楽毅を遠ざけたいがための厄介払いであることは明白であるが、【趙】軍に呼応した【斉】が【中山国】に軍を向けたという報を受けたのも事実であった。
城壁の隅にある馬面に立ち、眼下を俯瞰する楽毅。そよぐ風からも、かすかに春の香を感じる。
連日激戦を繰り広げていた数か月前と打って変わり、そこは驚くほどの平穏に満ちていた。
──いずれここも【斉】兵で埋め尽くされる。
【斉】がもし総力を挙げて軍を向けて来たなら、【中山国】はひとたまりもない。万が一そうなれば、死闘は免れないだろう。
しかし、楽毅は【墨家】と違って城を枕に全滅するつもりなど毛頭無い。城は所詮、器物。飽くまでも無機質な建造物に過ぎない。真に国を護るものは城ではなく人だ、と楽毅は常々思っている。たとえすべての城が落ちたとしても、王が生き延びてさえいれば国は存続する。王のいるところが国であり、王自身が国である。だから、たとえ霊寿が落ちて【中山】王に不幸があったとしても、その血脈を継ぐ太子だけは何があっても護り抜く、と楽毅はそう心に固く誓っていた。
それでも、彼女には懸念があった。
果たして、山野を城に戦う覚悟が姫尚にあるのだろうか?
そもそも、姫尚にそのような蛮族的な戦いを強いてよいのだろうか?
そして──
──もしも【中山国】が滅んでしまったなら……わたしはどうすればいいの?
楽毅はふと、自身に問いかけてみた。
彼女は、【斉】の臨淄に留学していた時、学友である趙奢と田単の三人でそれぞれの目標を語り合ったことがある。
──わたしは、わたし自身の力がこの乱世でどれだけ通用するのか知りたい。もしも【中山国】が滅びるのなら、それは即ち、わたしの力の限界……か。
そう思ったが、すぐにかぶりを振り、
──今は、目の前にある難局をどう乗り切るか、それだけを考えなければ。
口を固く引き結んだ。
「どうした、楽毅?」
背後から、春風のように爽やかで心地よい声が呼びかける。
おもむろに振り返ると、甲冑に身を包んだ姫尚、そして楽乗と楽間が立っていた。彼らは楽毅の側に歩み寄ると、同じように眼下に目を向ける。
「楽峻のことが心配か?」
「心配無い……ワケではありませんが、父ならうまくやってくれると信じております」
姫尚の言葉に、そう答えた。
楽峻は今、前線の重要拠点である東垣で、一万の兵を指揮し籠城している。厳しい戦いを強いられているだろうが、しばらくは持ちこたえられるはずだ。
しかし、楽毅はむしろ同じ東垣に配属された【墨家】の存在を危惧しており、【墨家】に対してよい印象を抱いていない。
『【墨家】の者には気をつけろ』
かつて齋和がそう忠告していた。それがどのような理由からもたらされた言葉なのかは分からないが、中華大陸一の偶像と称される彼女が言うのだから、きっと楽毅を本気で心配しているのだろう。
「そういえば楽乗さん。翠は見つかりましたか?」
その問いに対し、楽乗は渋い表情で首を横に振る。
楽間の面持ちも、灯りが落ちたように暗い。
「そう……ですか」
楽毅はそっと目を伏せる。
楊星軍が楽毅たちの元を訪れたその翌日から、翠は忽然と姿を消した。誰にも、何も告げること無く。
思えば、楊の口から【墨家】に関する報がもたらされた時から、翠の様子はいつもと違っていた。なぜか【墨家】という言葉に過剰な反応を示し、それ以降はいつも以上に寡黙になっていた。
「姉上……。翠さんはどこへ行ってしまったのでしょうか?」
楽間が不安そうな、そしてどこか寂しげな瞳で問いかけた。楽毅が思うに、彼は翠に対して恋慕に近い感情をいだいているように感じた。
「……大丈夫よ、楽間。翠は必ず帰ってくるわ。何も言わずにお別れするようなコじゃない。そうでしょう?」
楽毅はそう言って楽間の頬をそっと撫でる。それは同時に、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
「……はい」
頬に添えられた姉の手を取り、楽間は小さくうなずくのだった。