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第1話 必ず帰ってくるわ

 一面をおおい尽くした積雪が姿を消し、大地に春の息吹きが散見されるころ──


 【ちょう】軍は【中山国ちゅうざんこく】への進軍を再開すると、武霊王ぶれいおう獰猛どうもうさを体現するように【中山ちゅうざん】領を次々と併呑へいどんしていった。


 【中山ちゅうざん】王は、戦闘──特に守城戦に長けた集団・【墨家ぼっか】に援助を要請し、これを招き入れていた。

 【墨家ぼっか】は、その教祖とも言うべき墨子ぼくしの教えを遵守じゅんしゅし、鉅子きょしと尊称される指導者の元で“反戦”と“博愛”を旗印に掲げ、強きをくじいて弱きを助ける義侠の徒として知られている。

 しかし、その反面で苛烈さを持ち合わせており、守るべき城が落城する時は、【墨家ぼっか】はその責任を負ってすべて自害するほどだ。特に最近ではあたら武力の向上を図り、戦を余計にこじらせて被害をいたずらに拡大させている、というのが実情であった。


 そのために、【墨家ぼっか】の象徴シンボルである太極図たいきょくずが刻まれた白装束を見ると、人々は畏怖を禁じ得ないのだった。


 【中山ちゅうざん】王が招聘しょうへいした五百人の【墨家ぼっか】は、南方の要所である東垣とうえんと、国都である霊寿れいじゅにそれぞれ配置された。


 一方、【中山ちゅうざん】王によって将軍職を剥奪されてしまった楽毅がくきは、太子たいし姫尚きしょうの一配下として、霊寿れいじゅより遥か南東に離れた扶柳ふりゅうという城に五千の兵と共にいた。配置場所や与えられた兵数からも、太子たいし楽毅がくきを遠ざけたいがための厄介払いであることは明白であるが、【ちょう】軍に呼応した【せい】が【中山国ちゅうざんこく】に軍を向けたというしらせを受けたのも事実であった。



 城壁の隅にある馬面ばめんに立ち、眼下を俯瞰ふかんする楽毅がくき。そよぐ風からも、かすかに春の香を感じる。

 連日激戦を繰り広げていた数か月前と打って変わり、そこは驚くほどの平穏に満ちていた。


 ──いずれここも【せい】兵で埋め尽くされる。


 【せい】がもし総力を挙げて軍を向けて来たなら、【中山国ちゅうざんこく】はひとたまりもない。万が一そうなれば、死闘はまぬがれないだろう。


 しかし、楽毅がくきは【墨家ぼっか】と違って城を枕に全滅するつもりなど毛頭無い。城は所詮しょせん、器物。飽くまでも無機質な建造物に過ぎない。真に国を護るものは城ではなく人だ、と楽毅がくきは常々思っている。たとえすべての城が落ちたとしても、王が生き延びてさえいれば国は存続する。王のいるところが国であり、王自身が国である。だから、たとえ霊寿れいじゅが落ちて【中山ちゅうざん】王に不幸があったとしても、その血脈を継ぐ太子たいしだけは何があっても護り抜く、と楽毅がくきはそう心に固く誓っていた。


 それでも、彼女には懸念があった。


 果たして、山野を城に戦う覚悟が姫尚きしょうにあるのだろうか?

 そもそも、姫尚きしょうにそのような蛮族的な戦いを強いてよいのだろうか?

 そして──


 ──もしも【中山国ちゅうざんこく】が滅んでしまったなら……わたしはどうすればいいの?


 楽毅がくきはふと、自身に問いかけてみた。

 彼女は、【せい】の臨淄りんしに留学していた時、学友である趙奢ちょうしゃ田単でんたんの三人でそれぞれの目標を語り合ったことがある。


 ──わたしは、わたし自身の力がこの乱世でどれだけ通用するのか知りたい。もしも【中山国ちゅうざんこく】が滅びるのなら、それはすなわち、わたしの力の限界……か。


 そう思ったが、すぐにかぶりを振り、


 ──今は、目の前にある難局をどう乗り切るか、それだけを考えなければ。


 口を固く引き結んだ。


「どうした、楽毅がくき?」


 背後から、春風のように爽やかで心地よい声が呼びかける。

 おもむろに振り返ると、甲冑に身を包んだ姫尚きしょう、そして楽乗がくじょう楽間がくかんが立っていた。彼らは楽毅がくきの側に歩み寄ると、同じように眼下に目を向ける。


楽峻がくしゅんのことが心配か?」

「心配無い……ワケではありませんが、父ならうまくやってくれると信じております」


 姫尚きしょうの言葉に、そう答えた。


 楽峻がくしゅんは今、前線の重要拠点である東垣とうえんで、一万の兵を指揮し籠城している。厳しい戦いを強いられているだろうが、しばらくは持ちこたえられるはずだ。


 しかし、楽毅がくきはむしろ同じ東垣とうえんに配属された【墨家ぼっか】の存在を危惧しており、【墨家ぼっか】に対してよい印象を抱いていない。


『【墨家ぼっか】の者には気をつけろ』


 かつて齋和さいかがそう忠告していた。それがどのような理由からもたらされた言葉なのかは分からないが、中華大陸一の偶像アイドルと称される彼女が言うのだから、きっと楽毅がくきを本気で心配しているのだろう。


「そういえば楽乗がくじょうさん。ツェイは見つかりましたか?」


 その問いに対し、楽乗がくじょうは渋い表情で首を横に振る。

 楽間がくかん面持おももちも、あかりが落ちたように暗い。


「そう……ですか」


 楽毅がくきはそっと目を伏せる。


 ヤン星軍シンジュン楽毅がくきたちの元を訪れたその翌日から、ツェイ忽然こつぜんと姿を消した。誰にも、何も告げること無く。

 思えば、ヤンの口から【墨家ぼっか】に関するしらせがもたらされた時から、ツェイの様子はいつもと違っていた。なぜか【墨家ぼっか】という言葉に過剰な反応を示し、それ以降はいつも以上に寡黙になっていた。


「姉上……。ツェイさんはどこへ行ってしまったのでしょうか?」


 楽間がくかんが不安そうな、そしてどこか寂しげな瞳で問いかけた。楽毅がくきが思うに、彼はツェイに対して恋慕に近い感情をいだいているように感じた。


「……大丈夫よ、楽間がくかんツェイは必ず帰ってくるわ。何も言わずにお別れするようなコじゃない。そうでしょう?」


 楽毅がくきはそう言って楽間がくかんの頬をそっとでる。それは同時に、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。


「……はい」


 頬に添えられた姉の手を取り、楽間がくかんは小さくうなずくのだった。

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