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第10話 しかと承りました

 【中山国ちゅうざんこく】を発ってからふた月以上が経過した──


 ようやく帰国した楽毅がくきは疲れきった体を休める間も無く、父への挨拶もそこそこに交渉の報告の為に宮中へ参上した。


「よくもおめおめと帰ってこれたものだな」


 しかし、玉座にふんぞり返りながら【中山ちゅうざん】王は、ここぞとばかりに辛辣しんらつな言葉を浴びせた。文字通り腰巾着として脇に控える宰相さいしょう司馬熹しばきも、彼女に冷笑を向けている。


「返す言葉もございません」


 存分になじられるであろう事は覚悟していたが、主君である【中山ちゅうざん】王に騙される形で送り出された事に対するいきどおりも内心あった。しかし、それでも楽毅がくきは御前で膝をついた状態でうやうやしく頭を下げながら、涼しい顔でそう述べた。


 ──楽乗がくじょうさんがここにいたら、何と言ったかしら。


 楽毅がくきへの忠誠心にあふれている楽乗がくじょうの事だから、怒りのあまり王に対してでも殴りかかっていたかもしれない。

 そんな風に想像しながら、楽毅がくきは心の平静を取り戻していく。


「まったく、大人しく武霊王ぶれいおうに斬られてしまえばよかったものを。生き恥を晒しおって」


 しわくちゃの顔に更なるしわを刻ませ、司馬熹しばき忌々いまいましげに叱責する。

 彼らにしてみれば、武霊王ぶれいおうがわざわざ楽毅がくきを交渉の材料に指名した理由を、『楽毅がくきを自らの手であやめる為』、と思っていたのだろう。彼女をうとましく思っている二人にとっては、好都合と思っていたはずだ。


「まあ、【ちょう】との講和が白紙になった事自体は、したる問題ではない。問題があるとすれば楽毅がくきよ、お前の無能振りだな」

「国王陛下。此度こたび楽毅がくきの将軍職を剥奪し、千人将に降格というのはいかがでしょうか?」


 司馬熹しばきの提案に、【中山ちゅうざん】王は、よきにはからえ、と肥えた下っ腹を揺らしてうなずいた。


「では、楽毅がくきはこれより千人将とし、しょう太子たいしの指揮下に入る事とする。異存はないな?」

「……勅命、しかと承りました」


 様々な感情をし殺し、楽毅がくきは静かな声でそれを甘んじて受け入れた。


 屈辱的な降格であった。大軍を率いる権利は失ったが、それでも太子たいしである姫尚きしょうの下に仕えられのは唯一の幸運と言えた。【中山国ちゅうざんこく】の未来をになう若君を、すぐ傍で護る事が出来るからだ。



「一体、国王陛下は何を考えておられるのだ⁉」


 部屋に集まった面々を瞥見べっけんし、怒り心頭といった具合で、猛獣のごとく形相の楽乗がくじょうえる。その鬼気迫る姿におびえるかの様に、部屋の灯火がいびつに揺らめいた。


「【中山国ちゅうざんこく】存亡の危機だというのに楽毅がくきお姉様を要職から外すなど、正気の沙汰とは思えない」

「確かに。此度こたびの外交交渉といい、降格人事といい、どうも腑に落ちない事ばかりだ」


 腕組みをしてずっと考えてこんでいた楽峻がくしゅんが、それに同意する。彼にしてみれば、王によって娘を生け贄にされかけた様なもので、複雑な心境にならざるを得なかった。


「まあまあ、お二人共。こうなってしまった以上、もうどうにもなりませんから」

「ですが姉上。姉上は国王陛下に切り捨てられた様なものです。悔しくは無いのですか?」


 普段は温厚な楽間がくかんが、珍しく怒りの感情をあらわにしていた。彼はまだ幼いという理由で外交交渉に同行する事は出来なかったが、姉を尊敬し、護りたいと強く願っている。楽毅がくきに対する理不尽な処遇に憤慨ふんがいしているという点では、楽乗がくじょう達と同じであった。


「ありがとう、楽間がくかん。わたしだって悔しくないワケじゃないのよ。でもね、今はこれからの事を考えなければならないの。どうすれば武霊王ぶれいおうの野望をくじく事が出来るのかを、ね」


 隣に座る楽間がくかんの頭をそっと撫でながら、楽毅がくきさとすようにそう言った。

 楽間がくかんは気恥ずかしそうに、だけど少しうれしそうに小さくうなずいた。


「しかし楽毅がくきよ。【】と【えん】、そのどちらの援助も得られない今、どのようにして【ちょう】軍と対峙するのだ?」

「そうですね……。とりあえず、冬の内に新たな砦を築き、少しでも【ちょう】軍の進行を遅らせるようにしましょう」  


 父の問いに、楽毅がくきはしばらく考えてから答えた。


 楽毅がくきは、帰国してすぐに、楽峻がくしゅんから【えん】との交渉が破談に終わった事を聞かされていた。理由はやはり【】と同じ様なものであった。

 事実上、【中山国ちゅうざんこく】は完全に孤立無援となった。となれば、独力で敵を排除するしかないのだ。


「もう、それくらいしか手は残されてないか……」

「ですが、楽毅がくきお姉さんの先の戦いはお見事でした。型に捉われない戦況に合わせた戦術が展開出来れば、きっと武霊王ぶれいおうに負けないはずです」  

 普段は大人しいツェイが、めずらしく力強い口調で楽峻がくしゅんに語った。


「そうか。……そうだな。ツェイどのがいつも娘を助けてくれるから実に心強い。どうか、これからも娘と仲良くしてほしい」


 そう言って、楽峻がくしゅんツェイに向けて深々と頭を下げる。

 思わぬ言葉にツェイは顔を赤くしておろおろと戸惑い、しばらくしてから同じように深々と頭を下げるのだった。

 そんな光景を微笑ましげに見守った後、


「恐らく雪解けと同時に【ちょう】は再び兵を動かすでしょう。これまで以上の死闘となるはずです。どうか皆様の力をお貸しくださいませ」


 楽毅がくきはゆっくりと皆の顔を見廻して言った。

 楽峻がくしゅんが、楽間がくかんが、楽乗がくじょうが、ツェイが、その場にいた全員が、必死の覚悟を胸にうなずいた。


 仮に【ちょう】軍に勝利出来たとしても、戦争によって受けた被害ダメージを快復させるのは容易ではない。

 勝ち負けに関係無く【中山国ちゅうざんこく】は今、正念場を迎えようとしていた。

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