【中山国】を発ってからふた月以上が経過した──
ようやく帰国した楽毅は疲れきった体を休める間も無く、父への挨拶もそこそこに交渉の報告の為に宮中へ参上した。
「よくもおめおめと帰ってこれたものだな」
しかし、玉座にふんぞり返りながら【中山】王は、ここぞとばかりに辛辣な言葉を浴びせた。文字通り腰巾着として脇に控える宰相の司馬熹も、彼女に冷笑を向けている。
「返す言葉もございません」
存分に詰られるであろう事は覚悟していたが、主君である【中山】王に騙される形で送り出された事に対する憤りも内心あった。しかし、それでも楽毅は御前で膝をついた状態でうやうやしく頭を下げながら、涼しい顔でそう述べた。
──楽乗さんがここにいたら、何と言ったかしら。
楽毅への忠誠心にあふれている楽乗の事だから、怒りのあまり王に対してでも殴りかかっていたかもしれない。
そんな風に想像しながら、楽毅は心の平静を取り戻していく。
「まったく、大人しく武霊王に斬られてしまえばよかったものを。生き恥を晒しおって」
皺くちゃの顔に更なる皺を刻ませ、司馬熹が忌々しげに叱責する。
彼らにしてみれば、武霊王がわざわざ楽毅を交渉の材料に指名した理由を、『楽毅を自らの手で殺める為』、と思っていたのだろう。彼女を疎ましく思っている二人にとっては、好都合と思っていたはずだ。
「まあ、【趙】との講和が白紙になった事自体は、然したる問題ではない。問題があるとすれば楽毅よ、お前の無能振りだな」
「国王陛下。此度は楽毅の将軍職を剥奪し、千人将に降格というのはいかがでしょうか?」
司馬熹の提案に、【中山】王は、よきにはからえ、と肥えた下っ腹を揺らしてうなずいた。
「では、楽毅はこれより千人将とし、尚太子の指揮下に入る事とする。異存はないな?」
「……勅命、しかと承りました」
様々な感情を圧し殺し、楽毅は静かな声でそれを甘んじて受け入れた。
屈辱的な降格であった。大軍を率いる権利は失ったが、それでも太子である姫尚の下に仕えられのは唯一の幸運と言えた。【中山国】の未来を担う若君を、すぐ傍で護る事が出来るからだ。
「一体、国王陛下は何を考えておられるのだ⁉」
部屋に集まった面々を瞥見し、怒り心頭といった具合で、猛獣の如く形相の楽乗が吼える。その鬼気迫る姿に怯えるかの様に、部屋の灯火が歪に揺らめいた。
「【中山国】存亡の危機だというのに楽毅お姉様を要職から外すなど、正気の沙汰とは思えない」
「確かに。此度の外交交渉といい、降格人事といい、どうも腑に落ちない事ばかりだ」
腕組みをしてずっと考えてこんでいた楽峻が、それに同意する。彼にしてみれば、王によって娘を生け贄にされかけた様なもので、複雑な心境にならざるを得なかった。
「まあまあ、お二人共。こうなってしまった以上、もうどうにもなりませんから」
「ですが姉上。姉上は国王陛下に切り捨てられた様なものです。悔しくは無いのですか?」
普段は温厚な楽間が、珍しく怒りの感情をあらわにしていた。彼はまだ幼いという理由で外交交渉に同行する事は出来なかったが、姉を尊敬し、護りたいと強く願っている。楽毅に対する理不尽な処遇に憤慨しているという点では、楽乗達と同じであった。
「ありがとう、楽間。わたしだって悔しくないワケじゃないのよ。でもね、今はこれからの事を考えなければならないの。どうすれば武霊王の野望を挫く事が出来るのかを、ね」
隣に座る楽間の頭をそっと撫でながら、楽毅は諭すようにそう言った。
楽間は気恥ずかしそうに、だけど少しうれしそうに小さくうなずいた。
「しかし楽毅よ。【魏】と【燕】、そのどちらの援助も得られない今、どのようにして【趙】軍と対峙するのだ?」
「そうですね……。とりあえず、冬の内に新たな砦を築き、少しでも【趙】軍の進行を遅らせるようにしましょう」
父の問いに、楽毅はしばらく考えてから答えた。
楽毅は、帰国してすぐに、楽峻から【燕】との交渉が破談に終わった事を聞かされていた。理由はやはり【魏】と同じ様なものであった。
事実上、【中山国】は完全に孤立無援となった。となれば、独力で敵を排除するしかないのだ。
「もう、それくらいしか手は残されてないか……」
「ですが、楽毅お姉さんの先の戦いはお見事でした。型に捉われない戦況に合わせた戦術が展開出来れば、きっと武霊王に負けないはずです」
普段は大人しい翠が、めずらしく力強い口調で楽峻に語った。
「そうか。……そうだな。翠どのがいつも娘を助けてくれるから実に心強い。どうか、これからも娘と仲良くしてほしい」
そう言って、楽峻は翠に向けて深々と頭を下げる。
思わぬ言葉に翠は顔を赤くしておろおろと戸惑い、しばらくしてから同じように深々と頭を下げるのだった。
そんな光景を微笑ましげに見守った後、
「恐らく雪解けと同時に【趙】は再び兵を動かすでしょう。これまで以上の死闘となるはずです。どうか皆様の力をお貸しくださいませ」
楽毅はゆっくりと皆の顔を見廻して言った。
楽峻が、楽間が、楽乗が、翠が、その場にいた全員が、必死の覚悟を胸にうなずいた。
仮に【趙】軍に勝利出来たとしても、戦争によって受けた被害を快復させるのは容易ではない。
勝ち負けに関係無く【中山国】は今、正念場を迎えようとしていた。