「お疲れ様でしたァ、楽毅様」
幕舎を出るとすぐに、少女の明るい声がかかる。先程楽毅達を案内した兵士だ。
少女は預かっていた武器を楽毅達に返却すると、
「交渉はいかがでしたかァ?」
屈託の無い笑顔で問う。
「残念ながら決裂しました。わたし達は再び刃を交えなければならないようです」
「そうですか。それは心苦しいですねェ」
少女は楽毅の言葉を聞き、そう答える。しかし、その言葉とは裏腹に、少女の声色はどこかワクワクしているような、そんな高揚感を含んでいる様にも感じられた。
「私は楽乗という。ぜひとも、貴殿の名を聞かせて欲しい」
その時、ずっと真剣な面持ちで少女を注視していた楽乗がおもむろに問う。
「アタシの名前……ですかァ?」
少女はキョトンとした表情で、答えをためらう。楽毅と翠も、なぜ彼女がそれを訊ねたのか理由が分からずに怪訝な顔をしている。
しばらくして、少女が口を開いた。
「アタシは廉頗ですゥ」
「そうか。戦場で見えるのを楽しみにしているぞ、廉頗」
楽乗は笑みと共にそう言い残し、廉頗に背中を向ける。
「なんなら、ここで刃を交えてみますか、楽乗さん?」
その大きな背中に向けて、廉頗はまるで挑発するかの様に言い放った。一国の将に気にかけてもらえた事がよほどうれしかったのか、その顔はワクワクといった高揚に満ちていた。
「……ほう、おもしろい」
楽乗もその強気な言葉に武人としての高揚を抑えきれず、手にしていた戟を高々と掲げ、廉頗の方へ向き直る。
それに応じるように、廉頗(れんぱ)も手にしていた棒を引き掲げる。すると雪に隠れていた棒の先から、大きな岩を括りつけて造られた無骨な槌がその姿を現した。
「……なるほど。五十斤もある私の戟を涼しい顔をして受け取れるワケだ」
重量感に満ちたそれを軽々と持ち上げて棒を肩にかける少女の剛力振りを見て、楽乗は得心がいった。
──あんなにか細い体なのに、なんて馬鹿力なの。
楽毅はそんな怪力少女が一介の兵卒をしているという事実に驚愕すると共に、同じく怪力で鳴らした楽乗でさえも今回は分が悪いのでは、と不安が過ぎった。
「楽乗さ──」
「それくらいにしておけ、廉頗」
止めようと楽毅が声をかけたと同時に、幕舎の方から発せられた男の声が廉頗を制する。
ぼさぼさに乱れた髪に、どこか頼りなげな風貌をした壮年の男は趙与であった。しかし、彼の右足の太もも辺りには何重にも包帯が巻かれており、引きずる様な鈍重な足取りであった。
「趙与どの、その足は?」
「ん? ああ、これか。なあに、最後の最後で不覚を取り、矢傷を負っただけだ」
楽毅の問いに、サバサバとした口調で答えた趙与は、
「しばらく安静にしていればすぐに治る」
何でも無いと言わんばかりに傷口付近をポンっと叩いてみせた。
確かにその様子なら大事には至っていないようだ、とホッと胸を撫で下ろす楽毅であったが、戦争とはいえ友人の肉親を傷つける結果になってしまった事実に心が少し痛むのだった。
「そんな事よりもお前だ、廉頗。強そうな者と見るやすぐに己の腕を試したがる。悪いクセだ」
「で、でもオジさん。この人ならこれまで以上にアタシを楽しませてくれそうなんですゥ」
説教を受ける廉頗が口を尖らせながらそう訴える。
「なんですゥ、じゃない! この前大暴れした時に無関係の家の牛舎を破壊し、恐慌状態なった牛が一斉に逃げ出して街中が牛追い祭り状態になったあの惨劇、よもや忘れたワケではあるまいな?」
趙与のその言葉に、廉頗はすっ呆けた顔を明後日の方向に向け、下手くそな口笛を吹いてごまかそうとするのだった。
「それに楽乗、お前もだ。いちいちこの様な挑発に乗っていたらとても将は務まらんぞ」
ふぅ、と一息ついてから趙与は楽乗の方へ向き直り、同じように説教する。
「はっ、申し訳ございませんでした!」
すぐに戟を下げ、ビシッと拱手で返す楽乗。
「まったく、こっちはケガ人だというのに余計な世話を焼かせおって。そういう事は戦でやれ、戦で。私とて、楽毅と再戦出来る時が楽しみでウズウズしておるっちゅうに」
趙与はそう言ってニヤリ、という笑みを楽毅に向ける。
「わたしもです、趙与どの。先の戦では不覚を取りましたが、今度戦場で見える時には負けませんから」
廉頗や楽乗の様に抑えきれない程の高揚を感じながら、楽毅は高らかに言い放つのだった。