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第8話 街中が牛追い祭り状態になったあの惨劇

「お疲れ様でしたァ、楽毅がくき様」


 幕舎ばくしゃを出るとすぐに、少女の明るい声がかかる。先程楽毅がくき達を案内した兵士だ。

 少女は預かっていた武器を楽毅がくき達に返却すると、


「交渉はいかがでしたかァ?」


 屈託の無い笑顔で問う。


「残念ながら決裂しました。わたし達は再び刃を交えなければならないようです」

「そうですか。それは心苦しいですねェ」


 少女は楽毅がくきの言葉を聞き、そう答える。しかし、その言葉とは裏腹に、少女の声色はどこかワクワクしているような、そんな高揚感を含んでいる様にも感じられた。


「私は楽乗がくじょうという。ぜひとも、貴殿の名を聞かせて欲しい」


 その時、ずっと真剣な面持おももちで少女を注視していた楽乗がくじょうがおもむろに問う。


「アタシの名前……ですかァ?」


 少女はキョトンとした表情で、答えをためらう。楽毅がくきツェイも、なぜ彼女がそれをたずねたのか理由が分からずに怪訝けげんな顔をしている。

 しばらくして、少女が口を開いた。


「アタシは廉頗れんぱですゥ」

「そうか。戦場でまみえるのを楽しみにしているぞ、廉頗れんぱ


 楽乗がくじょうは笑みと共にそう言い残し、廉頗れんぱに背中を向ける。


「なんなら、ここで刃を交えてみますか、楽乗がくじょうさん?」


 その大きな背中に向けて、廉頗れんぱはまるで挑発するかの様に言い放った。一国の将に気にかけてもらえた事がよほどうれしかったのか、その顔はワクワクといった高揚に満ちていた。


「……ほう、おもしろい」


 楽乗がくじょうもその強気な言葉に武人としての高揚を抑えきれず、手にしていたげきを高々と掲げ、廉頗れんぱの方へ向き直る。

 それに応じるように、廉頗(れんぱ)も手にしていた棒を引き掲げる。すると雪に隠れていた棒の先から、大きな岩をくくりつけて造られた無骨なハンマーがその姿を現した。


「……なるほど。五十きんもある私のげきを涼しい顔をして受け取れるワケだ」


 重量感に満ちたそれを軽々と持ち上げて棒を肩にかける少女の剛力振りを見て、楽乗がくじょうは得心がいった。


 ──あんなにか細い体なのに、なんて馬鹿力なの。


 楽毅がくきはそんな怪力少女が一介の兵卒をしているという事実に驚愕すると共に、同じく怪力で鳴らした楽乗がくじょうでさえも今回は分が悪いのでは、と不安がぎった。 


楽乗がくじょうさ──」

「それくらいにしておけ、廉頗れんぱ


 止めようと楽毅がくきが声をかけたと同時に、幕舎ばくしゃの方から発せられた男の声が廉頗れんぱを制する。

 ぼさぼさに乱れた髪に、どこか頼りなげな風貌をした壮年の男は趙与ちょうよであった。しかし、彼の右足の太もも辺りには何重にも包帯が巻かれており、引きずる様な鈍重どんじゅうな足取りであった。


趙与ちょうよどの、その足は?」

「ん? ああ、これか。なあに、最後の最後で不覚を取り、矢傷を負っただけだ」


 楽毅がくきの問いに、サバサバとした口調で答えた趙与ちょうよは、


「しばらく安静にしていればすぐに治る」


 何でも無いと言わんばかりに傷口付近をポンっと叩いてみせた。


 確かにその様子なら大事には至っていないようだ、とホッと胸を撫で下ろす楽毅がくきであったが、戦争とはいえ友人の肉親を傷つける結果になってしまった事実に心が少し痛むのだった。


「そんな事よりもお前だ、廉頗れんぱ。強そうな者と見るやすぐに己の腕を試したがる。悪いクセだ」

「で、でもオジさん。この人ならこれまで以上にアタシを楽しませてくれそうなんですゥ」


 説教を受ける廉頗れんぱが口を尖らせながらそう訴える。


「なんですゥ、じゃない! この前大暴れした時に無関係の家の牛舎を破壊し、恐慌状態パニックなった牛が一斉に逃げ出して街中が牛追い祭り状態になったあの惨劇、よもや忘れたワケではあるまいな?」


 趙与ちょうよのその言葉に、廉頗れんぱはすっとぼけた顔を明後日の方向に向け、下手くそな口笛を吹いてごまかそうとするのだった。


「それに楽乗がくじょう、お前もだ。いちいちこの様な挑発に乗っていたらとても将は務まらんぞ」


 ふぅ、と一息ついてから趙与ちょうよ楽乗がくじょうの方へ向き直り、同じように説教する。


「はっ、申し訳ございませんでした!」


 すぐにげきを下げ、ビシッと拱手こうしゅで返す楽乗がくじょう


「まったく、こっちはケガ人だというのに余計な世話を焼かせおって。そういう事は戦でやれ、戦で。私とて、楽毅がくきと再戦出来る時が楽しみでウズウズしておるっちゅうに」


 趙与ちょうよはそう言ってニヤリ、という笑みを楽毅がくきに向ける。


「わたしもです、趙与ちょうよどの。先の戦では不覚を取りましたが、今度戦場で見える時には負けませんから」


 廉頗れんぱ楽乗がくじょうの様に抑えきれない程の高揚を感じながら、楽毅がくきは高らかに言い放つのだった。

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