臨淄より東に即墨という地がある。
海に近い事もあってこの邑は製塩が盛んであり、大国・【斉】の経済を支える重要な拠点であった。
夏が盛りを迎えた頃、楽毅は田単、趙奢と共にこの即墨のさらに東にある黄海の海岸に立っていた。
孫翁の兵学所は二週間の夏休みに入っており、それを利用して休養の為に訪れたのだ。
「これが海……」
洋々と続く青い色彩の景色に圧倒された楽毅が感嘆をもらす。
「笑っちゃうくらいデカいっスね」
趙奢も眼鏡越しに大きな瞳をしばたたかせながら呆っと呟いた。
「二人とも、海を見るのは初めてでしたか?」
田単の問いに、二人はコクリとうなずく。
楽毅の故郷である【中山国】も趙奢の故郷の【趙】も、内陸に位置している為に海とは縁が無かった。
「この海が見れただけでも、【斉】に来た甲斐があったわ」
繰り返し寄せては返す波を見つめながら、楽毅がしみじみと呟く。
「この海のどこかに仙人たちが住まう蓬莱山があると聞いたのだけど、本当かしら?」
「それは──」
楽毅の問いに田単が答えるより先に、
「それは迷信じゃ!」
突然この場に現れた少女の威厳に満ちた声がキッパリと断言する。
「も、孟嘗君ッ⁉」
楽毅のその言葉に、他の二人も、えっ、と驚きの声を上げる。
孟嘗君といえば【斉】のみならず中華大陸全土にまでその声名を響かせる超偶像である。しかしそこにいるのはどう見ても十二歳くらいの、左右結びでおデコの広い少女であった。
「あ、貴女があの孟嘗君……ですか?」
「いかにも。ワシが孟嘗君こと田文姫である。しかし、今は齋和として私的で来ておる。だから齋和と呼ぶがよいぞ」
田単の問いに少女はふんぞり返って答える。
趙奢は目をぱちくりさせたまま動かない。
「趙奢、どうしたの?」
「……か」
「か?」
「カワイイぃぃぃぃぃィッッッス‼︎」
突然、趙奢は目を星のようにキラキラと輝かせ、齋和に飛びつく。
その豹変ぶりに驚いた楽毅は思わず仰け反った。
「い、いきなりナンじゃ、コヤツは⁉︎」
「齋和ちゃんカワイイっス、柔らかいっス、サイコーっス!」
唐突に抱きつかれ戸惑う齋和の頬に、趙奢は容赦無く顔をすり寄せ、荒々しい鼻息を放つ。
「趙奢ってカワイイものに目が無かったのね」
「それは意外でした」
楽毅と田単は納得したようにしきりにうなずく。
「コラぁ、そこの二人! 勝手に納得してないで早くコヤツをなんとかせんかァッ!」
「う~ん、モチ肌~ぁ。プニプニしてて気持ちイイっス~!」
「め、眼鏡が……さっきから眼鏡が顔に当たって痛いしうっとおしいわいッ!」
必死の攻防は尚も続く。
「趙奢、もうそれくらいにしなさい」
「そうですよ。あんなにイヤがってるじゃないですか」
「あぁン、いけず~ぅ」
二人掛かりでようやく趙奢を引き離す。
「ハァハァ……。こ、コヤツは魔人じゃ。眼鏡魔人じゃ」
相当苦しかったらしく、齋和は顔面蒼白となって乱れた呼吸を整えるのだった。
「ゴメンなさいね、齋和。まさか趙奢にあんな趣味があったなんて知らなかったものだから」
「ふむ。まあ、ワシの心はこの黄海よりも広いからのう。許してつかわすぞ」
冷静を装い、あくまで強気な態度を崩さない齋和の姿に、楽毅は思わず苦笑いを浮かべた。
「そう言えば齋和ちゃん。さっき、蓬莱山は迷信だって言ってたっスけど、それは本当なんスか?」
田単に後ろから羽交い締めにされたまま、趙奢が訊ねる。
「うむ。この海の先に仙人の住まう蓬莱山などというものは無い。葦原という小さな島々からなる国ならあるがのう」
「葦原?」
それは初めて聞く名で、楽毅達はそろって首をかしげる。
「うむ。自然が豊かで美しい四季の風景が広がる所らしい」
「蓬莱山が迷信である事はなんとなく察してましたが、その葦原という国の名は私が今まで見たどの文献にも載っておりませんでした。孟嘗く……いえ、齋和どのはなぜそんなにお詳しいのですか?」
普段から勉強熱心でマジメな田単が、興味津々といった感じで訊ねる。
「まあ、ワシ自身は葦原に行った事は無いのじゃがな。ワシの育ての親である伯翁が元々そこで暮らしていたらしいのじゃ」
「ということは、伯翁どのは葦原人なのですか?」
「う~む。……まあ、そう言えなくもないのう」
「す……すばらしいですッ!」
齋和の答えに、田単は爛々と瞳を輝かせる。
先程の一件が恐怖となっているのか、齋和は思わず楽毅の背後に回りこみ、身を窄めてジト目を向ける。
「あ、私は趙奢みたいな趣味は持ち合わせておりませんのでご安心ください」
警戒心をあらわにする齋和に一言告げた上で、
「私は本の虫です。何よりも知識を欲しておりますが、経験こそが至高の知識と心得ております。その経験を豊富に持った御仁が身近におられる齋和どのは本当にすばらしいです!」
冷静な印象からは想像も出来ない程の興奮を発露させるのだった。
「あ、ああ。そうじゃな……」
しかし、齋和にとってはカワイイものに目が無い趙奢も異様なまでに知識に貪欲な田単も五十歩百歩に感じられ、本気で引いてしまうのだった。
「楽毅よ。オヌシの学友はみな変人ぞろいじゃな」
「へ、変人……?」
「うわぁ、そこまで直球に言われると本気でへこむっスよ〜」
齋和の言葉に衝撃を受けて項垂れる二人。そんな光景に、楽毅はただただ苦笑するしかなかった。
「やっと追いつきましたよ」
その時、後方から女性の涼やかな声がかかる。振り返ると、浜辺をゆっくり下りて来る一組の男女の姿があった。その二人は真夏という時分にも関わらず、全身黒ずくめという様相をしていた。
「馮さん。それに驩さん」
それは齋和の食客兼付き人で、楽毅もよく知る人物であった。
「お久しぶりですね、楽毅さん。また齋和がご迷惑をおかけしたのでしょう?」
「何を言う。迷惑をこうむったのはワシの方じゃ!」
馮の言葉に齋和が口を尖らせて憤然と抗議する。
「本当にゴメンなさいね。このコったら、目を離すとすぐに一人で暴走しちゃうから」
「ぬうぅ、無視か? 超偶像であるこのワシを完全無視か?」
「おいたわしい限りでございます」
構わず話を続ける馮。
全身で抗議の意を体現する齋和。
そんな齋和の姿に涙しながらも何の助け舟も出さない驩。
まるで寸劇のようなそのやりとりは、彼女達の日常の光景であった。
「もうよい。ワシは泳ぐ!」
そう言うと齋和は衣服を豪快に脱ぎ、それを驩の顔に向けて叩きつけるように投げる。
思わずハッと息を呑む楽毅達。
しかし、そこに現れたのは鮮やかな橙色の水着であった。先に衣服の下に仕込んでいたのだ。
「齋和ちゃん、泳ぐ気満々っスね……」
最初から水着を着て海水浴場にやって来るのは子供くらいなものだ、と誰もが思ったが、よくよく考えたら外見はどこからどう見ても子供なのでこれで正しいのだ、と思い直すのだった。
「じゃあ、わたしたちも着替えようか?」
水着へと着替えるため、近くにある無人の小屋へと楽毅達は入って行った。