第1話 己自身を磨け
楽毅が【斉】の国に来てから──臨淄の孫翁の元に師事してから二回目となる夏を迎えた。
当初はやる気が無く怠惰な生き方をしていた楽毅も、今では見違えるように刻苦勉励に努めていた。友人達の協力もあってたちまち遅れを取り戻すと、毎日師の言葉に真剣に耳を傾け、師の言葉を一言一句漏らさずに書き記し、何か疑問があれば率先して訊ねるようになった。
しかし、孫翁が彼女に対して特に目を瞠ったのはそうした勤勉さだけではなく、生活態度にあった。
楽毅はある日を境に、宿舎にある自分の部屋と学び舎である教室を毎朝掃除するようになった。すると、それを見ていた学友の田単と趙奢も自然と同じ事を始め、いつしか部屋や教室のみならず厠や厨房など宿舎や学び舎全体をも掃除するようになった。
やがてそれは全ての門弟にまで伝播し、今では町内の清掃にまで及んでいた。
誰かが、こうしよう、と言い出した訳では無い。そういう流れが自然と出来上がっていったのだ。
こうした門弟達の変化の基因が楽毅にあると知った孫翁は、彼女の豹変振りに感心すると共に、彼女は斗南の翼を広げる鳳になるかも知れないと密かな期待を寄せるのだった。
彼女の意識を大きく変えるきっかけとなったのは、やはり齋和──孟嘗君──との邂逅であった。
三千人もの食客を抱える中華大陸の頂点偶像である孟嘗君は、公族の娘でありながらその言動はあまりにも俗っぽく、しがらみに囚われないその奔放な生き様は多くの者を惹きつけた。楽毅もまた、その魅力に惹かれたひとりだ。
齋和は楽毅に、兵法を学ぶ前に便所の掃除をすべきだ、と述べた事がある。楽毅はその言葉の意図がすぐには分からなかったが、毎日身の回りの清掃を行うようになってから何となく彼女の真意が理解出来たような気がした。
まず、己自身を磨け──
恐らくそういう事なのだろう。
実際、齋和が数年の時を過ごしたという貧民街の人々は、どんなに貧しかろうと通りの清掃を毎日欠かさない。そんな彼らは自らを卑下する事無く、まっすぐ前を見据えて生きているのだ。
もうひとつ、齋和は楽毅に向けて、友達をたくさん作れ、と言った。他者を知る事が己を知る事になる、と。
そして楽毅は毎日講義が終わると街にくり出し、老若男女問わず多くの人と積極的に話をするようになった。
最初は訝しがられもしたが、何度も通いつめる内に自然と打ち解けられた。今では街を歩いているだけでたくさんの人から声をかけられるようになった。
まだ己を知るまでには至っていないが、こうして多くの人と語り合い、触れ合い、そのひとりひとりの考えや生き様を知る事が楽毅にとって何よりの刺激となっているのだった。