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第13話 そう、夕焼けです

 貧民街の孤児院でのささやかな宴を終えて楽毅がくきが帰路に着いたのは、もう陽が半分以上沈んだ夕刻の事だった。


 兵学所を出た時と違い、その足取りは驚く程に軽いものだった。

 茜色に照らされた街角を曲がれば稷門区しょくもんく──兵学所のある通りだ。


──あら? あれは……。


 楽毅がくきは、街門の壁にもたれる様にたたずむ二人の少女の姿を捉えた。同じ門下生で楽毅がくきと同じ班の趙奢ちょうしゃ田単でんたんである。


「二人とも、どうしたの?」


 呼びかけるが、二人は途端にバツが悪くなったようにしどろもどろな口調で、あの、とか、その、などと口ごもるばかりだった。


「もしかして、わたしの帰りを待っていてくれたの?」

「ち、違います! 私は……そう、夕焼けです。夕焼けがあまりにもキレイだったものですから、ここで眺めていただけです」


 慌てて否定する田単でんたん

 しかし、あまりにも不自然なその言動に、隣りに立つ趙奢ちょうしゃから、それはムリありすぎっスよ、とやや呆れた口調でつっこまれてしまう。


「そのとおりっス。楽毅がくきを待ってたんスよ」


 代わりにそう答えると、田単でんたんは驚いた様子で趙奢ちょうしゃの方を見やる。


「ホントのコトじゃないっスか」

「そ、それはそうですが……」


 ヘタな言い訳をしてしまった手前、後には退けないという思いがあった田単でんたんであったが、やがて諦めた様にひとつため息をくと、


「ええ、そうです。アナタを待っていました。私達は一応同じ班に組みこまれているのですから」


 顔を赤らめながらそう言うのだった。


「ったく、いちいち素直じゃないんスから、田単でんたんは。一言、心配だった、って言えば済むコトじゃないっスか」


 肩をすぼめて苦笑する趙奢ちょうしゃ


「べ、別に私は心配なんかしてませんッ!」


 田単でんたんはそれを全力で否定する。


「……二人とも、ゴメンね」


 そんなやりとりを見ていた楽毅がくきが、ポツリとつぶやいた。

 二人は、えっ、と驚いた顔を向ける。


「みんながそれぞれ目標をもって一生懸命勉強している中で、わたしだけが不真面目な態度を取っていた。勉強だけでなく、生活全般においてもそう。わたしは人生に何ひとつ目的を見出せずにいた。ううん、見ようともしなかった。人生を悲観してばかりで何もしようともしなかった」


 そっと目を伏せる楽毅がくき

 二人は黙ったまま聞き続ける。


「実はね……わたし、【ちょう】国出身というのはウソ。本当は【中山国ちゅうざんこく】から来たの。わたしは、【せい】の敵である【中山国ちゅうざんこく】の将軍の娘なの」


 一息ついてから、楽毅がくきは今までひた隠しにしていた自らの素性を明かした。

 【せい】と断交している国からの留学生という事実に、趙奢ちょうしゃ田単でんたんはもう一度驚きの声を上げた。


「【中山国ちゅうざんこく】は閉鎖的で息が詰まりそうだった。それに、わたしには将軍家の娘としての定められた道しかなかった。誰かの思惑によって定められた道しか。だからわたしは逃げだした。臨淄ここに来れば何かが変わると思って。でも、変わるはずなかった。だって──」


 変えようともしなかったのだから、と楽毅がくき自嘲じちょう交じりにつぶやいた。


「そんなわたしを叱ってくれるコ達が近くにいたのに、それさえ遠ざけていた。本当にゴメンなさい。そして、ありがとう」


 楽毅がくきが二人に向けて頭を下げると、二人はポカンとした表情でお互いの顔を見合わせるのだった。


「……な〜んか隠してる様な気はしてたんスよ」


 ため息交じりに両手を頭の後ろに組んで、趙奢ちょうしゃが言う。


「【ちょう】で『楽毅がくき』なんて名前のコ、聞いたコト無かったっスし。しかもそんな目立つ容姿なのに噂にもならないなんておかしいと思ったんスよ」

「そうね。【ちょう】の出身のアナタになら、いつかはバレると思ってたわ……」


 楽毅がくきは申し訳無さそうに苦笑する。


「……そんなにも」


 田単でんたんが一歩詰め寄り、重い口を開く。その手はギュッと固く握られていた。


「そんなにも私が、いえ、私達が信用出来ませんでしたか? 【中山国ちゅうざんこく】出身だからという理由で、私達がアナタを卑下するとでも思ったのですか?」

「違うの! わたしは……」


 いつになく強い口調の田単でんたんに、楽毅がくきは戸惑う。


「私は……話して欲しかったです。悩みを抱えているなら、相談して欲しかったです。だって、私は──」


 田単でんたんはキュッと口を引き結んでから、


「本当はアナタと、もっとお話したかったのですから……」


 微かな笑みを浮かべ、そう告げた。


 楽毅がくきは驚くと共に感激した。

 自分は常に一人であり、誰も自分の事など見ないし気にしないものだと思っていた。だけど、そうではなかった。こんなにも近くに彼女を気にかける者がいた。それが楽毅がくきにはとてもうれしかった。


「ありがとう、趙奢ちょうしゃ。ありがとう、田単でんたん


楽毅がくきは二人の瞳をまっすぐに見すえて、


「わたし、もう逃げない。あらがってみせるわ。自分の運命に」


 まるでき物が落ちたような晴れやかな顔で、そう告げた。


「……何だか変わったっスね」

「ええ。今朝までとはまるで別人の様です」


 学友の豹変振りに、趙奢ちょうしゃ田単でんたんは大きく目をみはった。


「あ、でも、先生に言われたコト、答えは出たんスか?」

「ええ。あの方に出逢えて、おぼろげではあるけど答えが見出せたわ」


 楽毅がくきは小さく微笑み、力強い足取りで兵学所のある稷門しょくもんをくぐる。

 趙奢ちょうしゃ田単でんたんは小首をかしげてから、その後を追った。




 教室は夕刻の朱に染められ、幻想的な情景を映し出していた。

 窓辺の方で、車イスに座った孫翁そんおうがひとり、燃えるような夕焼けをじっと見つめている。


「先生」


 声をかけると彼は振り返ることも無く、楽毅がくきか、と隠然とその名を呼ぶ。


「はい。ただ今戻りました」

「ふむ。では、答えを聞かせてもらおうか」


 ギィ、と車輪をきしませ、孫翁そんおうが向き直る。

 楽毅がくきの背後では、趙奢ちょうしゃ田単でんたんが心配そうに彼女を見守っている。


「はい。わたしは……」


 楽毅がくきはもう一歩前に踏み出し、


「わたし自身を知りたいです。わたしがどういう人間なのかを。このひろい世界の中で、わたしの力がどこまで通用するのかを。それがわたしの生きる動機です!」


 胸に手を添えながら、まるで情熱の詩をぎんじるかのように朗々ろうろうと語った。


「ほう、己自身を知りたい、と申すか。ではその為に、お前はまず何を成すのか?」


 孫翁そんおうは厳しい表情を崩す事無く、さらなる問いを投げかける。


「はい。わたしは人を欲します。他者を知る事はすなわち、己を知る事。だからわたしは、これまで避けてきた他者との交流を切に願います」


 おくする事無く師の瞳をまっすぐに見据え、りんとした声色で楽毅がくきは答えた。

 もう、彼女の心に迷いは微塵みじんも無かった。


 孫翁そんおうは無言のまま、じっと楽毅がくきを見据える。彼女もまた、目を逸らさずに師を見つめ続ける。

 趙奢ちょうしゃ田単でんたんは、そんな二人をハラハラと落ち着かない様子で見ている。


 まるで静止画の様に、お互い見合ったままの状況を打ち破ったのは、孫翁そんおう呵々大笑かかたいしょうだった。


「人を欲する、とは。まるで孟嘗君もうしょうくんごとく大層な事をヌかしよるわい」


 しかし、楽毅がくきは何も返さずただ穏やかな笑みを浮かべる。


「……お前、もしや孟嘗君もうしょうくんに逢ったのか?」


 途端に元の厳格な表情に戻った孫翁そんおうたずねると、彼女はコクリとうなずいた。


 これには後ろに控えていた趙奢ちょうしゃ田単でんたんのみならず、孫翁そんおうも驚きを隠せなかった。それだけ【斉】国この国にとって、いや、中華大陸において孟嘗君もうしょうくん重鎮じゅうちんかつ伝説的な異彩を放つ崇高すうこうな存在なのだ。


「『君子は豹変す』、とはよく言ったものだ。しかし、たった一度の邂逅かいこうで人をこうも変えてしまう孟嘗君もうしょうくんは、やはり傑物だな」


 フッと笑みをこぼし、孫翁そんおうはひとりごちた。


楽毅がくきよ。よき出逢いをしたな」

「はい。無明の闇の中で一筋の光明を得た思いでございます」


 師の言葉に満面の笑みで返す楽毅がくき


 そして楽毅がくきは外に目をやる。一面燃え盛るような茜色に染まった幻想的な光景。自身の髪と同じ、紅色に染まるそら

 この日見た夕焼けを、楽毅がくきは一生忘れる事は無いだろう──

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