すぐに孤児院の庭に宴席が設けられ、貧民街の人々がぞくぞく集ってひしめき合う。
「こうして多くの方々に囲まれて共に喜びを分かち合える事を、とても幸せに思います」
卓上にズラリと並べられた数々の料理とそこにいるたくさんの人々を見廻して、蓮が感動と共に述べる。
「うむ。みな遠慮なく食すがよいぞ」
「って、齋和が偉そうに言ってもなぁ。食材をそろえられたのは楽毅のおかげだし、料理作ったのだって蓮姉ちゃんだし」
尊大な態度でうそぶく齋和に元達が指摘すると、そのとおりだ、と周囲からどっと笑いが起こる。
楽毅はこういった宴に参加するのは初めての事であった。
人と接する事自体が苦手だった彼女にとっては、このような賑やかな場に同席している自身の心の変化が驚きであった。
──こういう空気も悪くない。
楽毅は、自身の内に生じた今まで感じたことの無い新鮮な気持ちを素直に受け入れることにした。
「そうじゃ、楽毅。オヌシに見せたい物がある」
楽毅の隣の席に座る齋和が、そう言って首に掛けている斑の紐を外して見せる。
服に隠れて見えなかった紐の先には、鮮やかな桃色をした小さな玉がひとつ繋がっていた。しかしその玉はコの字に似た形に湾曲しており、まるで胎児のような、はたまた陰陽思想に用いられる太極図のような奇妙な形を成していた。
「変わった形の玉ね?」
「これは【八紘の宝珠】といってな。ワシの運命を大きく狂わせた物なのじゃ」
「運命を……狂わせた?」
齋和はコクリとうなずいて続けた。
「ワシは五月五日の生まれでな。知っての通り『五』はこの国では不吉の数字であり、『五月五日に生まれた子はやがて親に害を為す』などという迷信のせいで、ワシは一度父親に棄てられたのじゃ」
孟嘗君の出生にまつわる逸話は中華大陸ではかなり有名な話だ。
しかし楽毅が伝え聞いた話では齋和──田文姫の父親は生まれたばかりの赤子であった彼女を殺すよう命じ、それを憐れんだ彼女の母が匿って密かに育てた、という顛末であった。
「世間では父がワシを殺そうとしていたように噂されているようじゃが、父は凶事を避けようとワシを一度別の者に預けて育てさせ、成人を迎えたら引き取るつもりだったそうじゃ」
どうやら彼女も自身に関する巷間の噂を耳にしていたようだ。
「しかし運命のいたずらか、ワシは神隠しにあったように消えてしまったらしくてのう。物心ついたころにはワシは伯翁の元で育てられていたのじゃ。伯翁はワシが【斉】の公族の娘である事に最初から気づいておったようじゃ。ワシの首には母から授けられたこの宝珠を下げておったからのう」
「そうなんだ。でも、運命を狂わせたって……?」
ふむ、と言ってひとつ大きく息を吐き、齋和は続けた。
「ワシはな、とある組織に狙われておったのじゃ。いや、正確に言えば今でも狙われておる。その原因となったのがこの宝珠であり、ワシの命を救ってくれたのもこの宝珠のおかげなんじゃ」
「どういう事?」
「この宝珠はな、本来ここにあってはならぬものなんじゃ。過ぎたる力──時代を超越した知識と情報の結晶とでも言うべきか。そして、これはどういうワケか特定の者にしか扱えぬらしい。この宝珠が相応しい持ち主を選別しておるのかは分からぬがな。だからその力に魅入られた者達に狙われる。この宝珠も、その力を扱えるワシも」
彼女はおもむろに宝珠を天に向けて掲げる。陽光が反射して鮮やかな光芒を織りなし、齋和の顔に降り注ぐ。
「時にオヌシ、天下にその名を轟かせている超偶像の孟嘗君がこのような幼い娘の姿であるという事実、おかしいとは思わぬか?」
「え? ……う、うん。確かに」
改めて問われると、それは実に不可思議であった。
孟嘗君という傑物は楽毅がまだ幼い頃から、更に言えば生まれる以前からすでに活動していた。本来であればそれなりの年齢に至っているはずであるがしかし、今目の前にいるのは、どこをどう見ても楽毅より年下の少女なのである。
「まさか、それも宝珠の力だというの?」
「……不老不死など、ワシは望みはしなかったのにのう」
楽毅の問いに直接答えることは無かったが、淡々とした口調で語る齋和の哀愁を帯びたその表情から、それが肯定である事が覗えた。
呪われた躰なんじゃ──
彼女は最後にそう言って、桃色の宝珠を服の胸元にしまった。
楽毅は正直、宝珠が命を救ってくれただとか、不老不死をもたらすなどという話に現実感を抱けずにいた。しかし、齋和が無責任な絵空事を語るような子では無いと思っている楽毅は、
「いろいろあったのね……」
多くを問う事はせず、そう呟いた。
「うむ、いろいろあった。じゃが、ワシはそれ故に多くの者達と出逢い、多くの経験を積んだ。だからこそ今のワシがある」
そう言って齋和は周囲を見回しながら、
「馮に驩。蓮。ここにいるひとりひとりが今、ワシを見ている。知っている。この中の誰かひとりでも欠けていたら、今のワシはまた違ったものであっただろう。もちろん楽毅、オヌシも今のワシを構成するひとりじゃ。ワシの大切な友じゃ」
最後に楽毅に向けて言った。
「わたしも……友達?」
その言葉に、楽毅の心は大きく、激しく震えた。
齋和は大きくうなずくと、
「もちろんじゃ。ワシだけではないぞ。オヌシは今日、今ここにいるすべての者たちと出会った。ここにいるみながオヌシの友じゃ」
伸ばした手で周りを指し示しすと、そこにいるすべての者達が、笑顔でうなずいた。
「本当に……友達になってくれるの?」
「もちろんですよ、楽毅さん」
黒ずくめの女性──馮が穏やかな笑みで応える。
「お嬢様のお友達は私の友達でございます」
と黒ずくめの男性──驩が。
「かわいいお友達が増えてうれしいです」
と蓮が。
「これも何かの縁だし、俺達も友達になってやるよ。なあ、みんな?」
元達が周囲に呼び掛けると子供達が、邑の人達が笑顔でうなずく。
「あ……とう。みんな、本当に……ありがとう」
その瞬間、楽毅は心の奥底からこみ上げるものを抑える事が出来なかった。頑なだった心の壁が、温かい光に包まれて解けてゆくような、そんな感覚を覚えるのだった。
「なんじゃ、楽毅。泣くのか笑うのかどちらかにせい」
齋和が苦笑して言う。
しかし、楽毅はあふれ出す涙とこみ上げる喜びを、しばらくの間抑える事が出来なかった。
「楽毅よ。これからもっと多くの者と出逢い、その者達と友になるのじゃ。出会いの数だけ喜びが生まれ、また別れの数だけ悲しみを知る。他者を知る事はすなわち、己自身を知る事でもあるのじゃ。時には傷つけ合い、時には心が折れそうになる事もあるじゃろう。じゃが、その経験は必ずや糧となり、オヌシを成長へと導くであろう」
楽毅の肩にポンと手を置き、齋和は母親のような慈愛に満ちた笑顔を浮かべてそう述べた。
楽毅はコクリとうなずき、肩に置かれた少女の手に自らの手を重ね合わせた。
陽光のように温かな体温──
──ああ、生きている、ってこういう感覚なのね。
人は他者を知る事によってあらゆる感情を憶える。
感情は心を突き動かし、生きる原動力となる。
すなわち、生きるというのは人を知るという事なのだ。
楽毅は、師から与えられた課題に対する答えを垣間見たような気がした。
齋和──
孟嘗君──
彼女との出会いは楽毅にとって大いなる転換となり、彼女の人としての生は今、この時ようやく動き始めたのだった。