こうして三金もの大金を得た二人は競馬場を後にし、再び商業区に戻ると全額を投げ出してありったけの食材を買い漁った。
「たくさん買ったわね」
両手では抱えきれず、店から荷車を借りなければならない程の量であった。
「本当はもっとあれば良かったのじゃがのう。まあ、とりあえず友は喜んでくれるじゃろう」
「もっとあればって……一体何人お友達がいるの?」
「十人じゃ!」
広げた両手の平を突き出し、齋和は誇らしげに言った。
「そっか……たくさん居るんだね」
楽毅は少しだけうらやましいと思った。
彼女には故郷の【中山国】に自分を慕ってくれる従妹がひとりいる。彼女にとって友達と呼べる者はその少女くらいで、田単や趙奢は同じ門下生であり同じ班に属しているというだけで、友達と呼べる程の関係では無い。
「何じゃ、急にしょげたツラをしおって。オヌシにも友くらいおるじゃろうに」
「うん……。でも、どうだろう。お友達と胸を張って言えるだけの付き合いを、わたしはした事が無いみたい」
痛いところを突かれ、楽毅は苦笑した。
そして彼女は語り始めた。
父から疎まれているかもしれない事──
全ての物事に対して無気力である事──
故郷を離れ、臨淄に来てもそれは変わらない事──
兵法の師である孫翁から、生きる動機を見つけるまで戻ってはならぬと告げられた事──
これまで楽毅は、そういった悩みを誰かに打ち明けた事は無かった。しかし今、会ったばかりの少女にこうして己の恥部とも言える弱い内面をさらけ出している。
自分が【中山国】から来たという事だけは明言を避けたものの、話始めるとまるで泉から水が湧き出すように次から次へと言葉が滔々と紡ぎ出されていた。まるで何者かが乗り移って替わりに口を動かしているかの様な不思議さを、楽毅は感じていた。
黙ってその話を聞いていた齋和は、ふぅ、とひと呼吸を置いてから、
「くだらぬな」
吐き捨てるようにそう言い放った。
「そうだよね。くだらない悩みだよね……」
「違う。ワシが言っておるのは兵法の事じゃ」
しょんぼりとする楽毅の肩を齋和がポンと叩く。
「兵法を学ぶな、とは言わん。ワシとて孫翁には並々ならぬ恩があり、教えを受けた事もある。しかし、オヌシら若い者はあたら生兵法に走り己自身を省みようとせぬ」
嘆かわしい事じゃ、とため息交じりに言った後、
「兵法など学ぶ前にまず、便所の掃除でもすべきなのじゃ」
と締めくくった。
どういう事なのだろう、と楽毅は首をかしげた。
と同時に、【斉】という大国の隆盛を支えた兵法をこうも散々にこき下ろしてしまう齋和に驚きを禁じ得なかった。
「楽毅よ。オヌシの悩みは至極もっともじゃ。ワシとて父親から疎まれていた過去がある故に、その苦しみは痛い程に理解出来る。じゃがな、人はみな迷い、苦しみと共に生きておる。生きなければならぬ。貧しい者には貧しい者なりの、裕福な者には裕福な者なりの苦悩が必ずあるのじゃ。明確な指針を持って生きている者などほんの一握りに過ぎぬし、その者達とて自らの力のみでその道を切り拓いていると思い違いをしておる。そう──」
思い違いなのじゃ、と齋和はくり返す。
「王族や貴族達はその恵まれた出自の上に胡座を欠くばかりで、民の声に耳をかたむけもせぬ。民によって生かされているクセに、己が民を生かしているものと思い上がっておる。人はひとりで生きておるのではない。他者によって生かされておるのじゃ!」
齋和の弁は熱を帯びる。しかし、それは楽毅に向けた訓辞というより常日頃から思っている不平不満を吐露しているようにも思えた。
「オヌシもこの臨淄の邑並みを見たら分かるであろう? ワシらは商業区で肉まんを買って食した。空腹を満たす為じゃ。一方、肉まんを売る店主はワシらという客があるから金銭を得る事が出来る。肉まん売りは己がこしらえた肉まんを食せば腹は満たせるが、金銭がなければ寒さをしのぐ服が買えない。その一方で、服屋は寒さはしのげても金銭がなければ空腹を満たす事が出来ぬ。世の中というものはこうした人と人との繋がりによって成り立っておる。誰かひとりでも欠けてはならぬ、大切な繋がりじゃ」
その言葉に楽毅はハッとした。
自分達が普段当たり前と思っていた──そう思いこんでいた小さな営みの裏で、実は多くの人が関わっていたなどと、彼女はこれまで考えが及ばないでいた。
それが当たり前、と思っていたのは実は単なる思い上がりに過ぎず、ひとつひとつの事柄の先には必ず他者との繋がりが存在するのだ。
「肉まん売りに服は編めない。裁縫職人に肉まんは作れない。だから人は誰かと繋がる事で生きている。生かされている。そういうことね?」
楽毅の言葉に、齋和は満足そうな笑みで小さくうなずいた。
「歴史は君主や英雄のみによって作られるのではない。人と人とを繋ぐ縁。それは糸のようにか細く切れやすいものじゃが、そのあえかなる縁が思いもかけぬ物語を紡ぐこともある。じゃからワシは、一期一会を大切にしたいと心がけておる」
もちろんオヌシとの出会いもじゃ、と齋和は満面の笑みを向ける。
その刹那、楽毅は一陣の風を体全体で感じた。
それは彼女の心の隙間に染み渡る、爽やかで温かな風だった。
──そうか。わたしはただ、人と関わる事から逃げていただけだったんだ。この世界が閉塞的なんじゃない。わたしの凝り固まった心が、この世界をつまらないものにしていただけなんだ。
楽毅はそう悟った。
と同時に、齋和という小さな少女の闊達とした言動にただただ感服するしかなかった。
──このコは一体何者なのかしら?
少女への興味はますます募るのだった。