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第7話 最後に差し切ったぞ

 券売所にやって来た齋和さいかは手にしていたお金を係の男の前に差し出し、


「次の競走レース、八番に一点がけじゃ!」


 高らかに告げる。

 替わりに係の者から特殊な印がほどこされた木片が手渡される。これが勝馬投票券馬券と呼ばれるものだ。


「全額賭けたの?」

「うむ。とはいえこの前大負けしたので三百銭しか残ってなかったのじゃがのう」


 三百銭では、せいぜい肉まんが三個買える程度である。


「一番人気の春雷しゅんらい号がジャンジャン人気を吸っているおかげで、概算配当率オッズは二十倍もついておる。当たれば六千銭にはなるじゃろう」

「外れたらどうするの?」

「外れたら……今着ているこの着物を売ってまた勝負するまでじゃ!」


 齋和さいかは事も無げに言い放った。


「着物を売るって……何でそこまでするの?」


 先程は負けても構わない様な事を言っていたはずである。


「……実は今日は大切な友達の誕生日なのじゃ。ワシはその者に何か馳走してやりたいと思っておる。その為にある程度まとまった金が必要なのじゃ」


 齋和さいかは静かに語った。


「だから競馬?」

「ワシのようなか細き娘がすぐに金を得られるとすれば、後は身体を売る以外あるまい。しかし、ワシはそんなのゴメンじゃからな」


 確かに、色を売る他に女性が手っ取り早くお金を稼げる手段はこれくらいしか無いのかもしれない。


「まあ、負けたら負けたで、すまなかったと頭を下げればその友達も許してくれるじゃろう」


 そう言って齋和さいかはニコリと笑った。


 楽毅がくきは、少女の口ぶりなどから彼女を貴族の令嬢と勘ぐっていたが、その正体はますます分からなくなる。


「そっか……」


 楽毅がくきはそれ以上何も言えなかった。

 出来れば自分が資金を提供してあげたいとも思ったが、齋和さいかはそれを決して受け取りはしないだろう。なぜなら、彼女は自分のお金で、自分の力で友達をもてなしたいと思っているからだ。

 しかし、それでありながら齋和さいかには絶対に当ててやる、といった力みはまるでなく、むしろ純粋に博戯ギャンブルに興じているようにも見えた。


 ──スゴイな、このコ。


 繊細さと剛胆をあわせ持ったこの少女に、楽毅がくきは素直に敬意を抱くのだった。


 その時、係の者達が一斉に銅鑼どらを打ち鳴らす。


「馬券購入の締め切りじゃ。そろそろ競走レースが始まるぞ」


 齋和さいかの先導で二人は観覧席へと向かう。


 競走レース場は一周一千メートル以上もの大きな楕円形になっており、観覧席はその周囲をぐるりと取り囲むように設置されている。

数千人は収容出来そうなその観覧席はほぼ満員で、むせ返るような熱気が充満していた。


 競走レース場で係の者が大太鼓をドンドンと打ち鳴らすと、競走レースに出走する馬が騎手を乗せて現れる。


 全部で十頭となる競走馬が発走スタート地点のゲート前に横並びとなる。


 係の者がドンと太鼓たいこを打ち鳴らすと、それを合図にゲートが開放され、競走レース発走スタートする。


 最初に猛然と飛び出したのはこの競走レースの最有力馬である五番の春雷しゅんらい号だった。

 春雷しゅんらい号は先頭ハナに立つと瞬く間に後続に四馬身以上もの差をつけて独走する。


「逃げに出たわね」

「うむ。あの馬はこれまで全て逃げ切り勝ちしてきた。しかし、二千四百メートルは未知の領域。果たして最後まで体力スタミナが持つか見ものじゃな」


 この展開は予想通りで、二人は冷静に競走レースを見守る。


「八番は中団辺りにいるわね」

「この馬はじっくり脚を溜めて、最後の直線で勝負する部類タイプじゃから、位置取りとしては申し分無いのう。後は馬の力を信ずるのみじゃ」


 楽毅がくきはゴクリと息を呑んだ。

 確かに彼女は下見所パドックでの状態から判断して、この馬を選んだ。しかし、だからと言って期待どおり好走するという保証などどこにも無いのだ。


 そして競走レースはついに終盤──


 各馬最終曲線コーナーへと差し掛かる。

 残り六百メートルの地点で、まだ五番が後続に四馬身の差をつけて逃げている。


 各馬にムチが盛んに入ると同時に、


「逃げろ!」

「差せ!」


 という怒号があちこちで飛び交い、観客席は興奮の坩堝るつぼと化す。


 残り四百メートル。

 後続が先頭との差を詰めるが、それでもまだ二馬身ほどの差があった。

 そして八番はまだ同じ位置にいた。


 ──やっぱりダメなのかしら。


 緊張のあまり目を伏せる楽毅がくき


 しかし、残り二百メートル。

 ここにきて先頭を行く春雷しゅんらい号の足が明らかに鈍ると同時に、八番の流星りゅうせい号が大外から驚異的な末脚すえあしで前を行く馬をごぼう抜きしてゆく。


「いける。いけるぞ!」


 齋和さいかが興奮気味に叫ぶ。


 到達ゴール間近、ついに八番の流星りゅうせい号が先頭を行く五番の春雷しゅんらい号に並ぶ。


 ──お願い。齋和さいかを勝たせてあげて。


 楽毅がくきは必死に祈った。


 そして――

 両馬ほとんど差が無いまま一斉に到達ゴール。どちらが勝ったのか、すぐには判別が付かなかないほどの接戦であった。


「……ど、どうなったの?」


 ゆっくりと目を開き、そうたずねる楽毅がくきの声は震えていた。


「……勝った」


 呆然とした表情で到達ゴール地点を見つめていた齋和さいかがポツリとつぶやく。


「え?」

「勝ったのじゃ! 八番の流星りゅうせい号が最後に差し切ったぞ。楽毅がくき、オヌシの見立てが当たったのじゃ!」


 ようやく我を取り戻した齋和さいかは、楽毅がくきの体に思い切り飛びつき、興奮気味に言った。


「勝った……の?」


 たしかに係の者は声高に、一着八番、二着五番と到達順位を伝えていた。


 不意に楽毅がくきは脱力し、その場に座り込む。


「お、おい。大丈夫か?」


 急に崩れるようにして座ったので心配して顔をのぞきこむ。


「あはは……何かホッとしたら力が抜けちゃったみたい」

「ワシもじゃ。着物を売らずにすんで本当はホッとしておるのじゃ」


 そう言って、二人は顔を見合わせて笑うのだった。

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