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第2話 空っぽなんです

 そらを見上げている。

 ただ、虚ろな眼差しをそこに浮かべている。


 青い、ただひたすら塗りたくったような青い色彩は昨日と同じ。時々にび色に染まる日もあるが、そらはいつも変わらずそこにあり続ける。今日も、明日も、それから先もずっと。


 だとしたら、わたしたちはそらとらわれているだけではないか、と楽毅がくきは思った。


 生まれて、死ぬ。ただ、それを繰り返すだけ。


 人は死ぬ為に生まれてきたのか?

 人は何の為に生きているのか?


 決して抜け出すことの出来ない鳥籠とりかごの中で、たださえずるだけのあわれな囚人だ、と。



 汚泥おでいのようにドロドロとした気持ちをかかえたまま、視線を真横に移す。

 そこには大きな庭園があった。木々には鳥が集い、泉からは洋々ようようと水が湧き出す庭園。


 臨淄りんしの街中に稷門区しょくもんくと呼ばれる数多くの兵学所が存在する区画の中で、楽毅がくき孫翁そんおうの兵学所を選んだ最大の理由は、この庭園を一目で気に入ったからであった。


 楽毅がくきは今日も窓際の一番後ろの席に座ると、机に肘をついた状態で手のひらに頬を置き、ぼうっと庭園を眺めている。

 もうとっくに講義は行われており、門弟たちはみな真剣な眼差しで師である孫翁そんおうの──伝説の大軍師・孫臏そんぴんの──話に耳をかたむけ、その金言きんげんを一語一句も漏らすまいと黙々と竹片に書き記していた。


「ちょっと、楽毅がくき。ちゃんと話聞いた方がイイっスよ」


 右隣の席の少女が見兼ねて、小声で呼びかける。

 少々クセのある栗色の髪を三つ編みにまとめ、丸い大きな眼鏡をかけた知的な印象の少女だ。鼻の周辺まわりにはそばかすがあり、それが素朴さとあどけなさを感じさせる。


「う~ん……」


 気怠けだるい声で生返事をする楽毅がくき。視線は外に向けられたままだ。


 ねえってば、と眼鏡の少女はさらにうながすが、楽毅がくきは聞こえないフリをする。


「放っておきなさい、趙奢ちょうしゃ。やる気の無い人には何を言ってもムダなのです」


 楽毅がくきの前の席に座る少女は、楽毅がくきでは無く眼鏡の少女──趙奢ちょうしゃ──を見咎みとがめる。青みがかった黒い長髪ロングヘアーの、冷静クールな雰囲気を宿した少女だ。


「でもさァ、田単でんたん。ジブン達一応同じ班なワケっスから……」

「協調性の無い人に班行動なんて、どだいムリなのです」


 冷静クールな少女──田単でんたん──は印象通りの鋭い口調でキッパリと言い放った。


 ──その通りだわ。


 と楽毅がくきは思った。


 上空ではかりが群れを成して飛行している。

 自分も自由に羽ばたいてみたい。

 しかし──


 ──わたしはかごの中の鳥だわ。


 そう思い自嘲じちょうした。


 臨淄りんしにいても成すべき事は見つからず、かといって【中山国ちゅうざんこく】に戻ればさらに無味乾燥な日々が待っている。

 どこにも行けない。どこに行けばいいのか分からない。


 楽毅がくきの目には、あのそらが遥か彼方の宇宙のようにとても果てしなく遠く、全く現実感のともなわない異世界に映るのだった。


「「あっ」」


 その時、趙奢ちょうしゃ田単でんたんそろって驚きの声を上げる。


 それに反応した楽毅がくきが悠長な動きで前方に顔を向けると、彼女のすぐ傍らに車椅子に乗った──両膝下の機能を喪失なくした──老人の姿があった。


「その虚ろな瞳で斗南となんの翼を夢見るか、楽毅がくきよ?」


 髪と髭は雪のように白く、顔には無数のしわが刻みこまれた老人──孫翁そんおう──が隠然と言った。

 七十を優に超えようかというよわいだが、矍鑠かくしゃくとした印象がある。


「わたしは羽ばたくすべを持たない籠鳥ろうちょうです。狭い鳥籠とりかごの中でどうして翼を広げることが出来ましょう」


 楽毅がくき憮然ぶぜんと言い放った。

 周囲はざわめき立つ。師である孫翁そんおうに真っ向から反論した者など、これまでいなかったからだ。


「ほう、自らをかごの鳥と称するか。何とも不遜なことよ」


 孫翁そんおうは胸元まで伸びた顎髭をさすりながら呵々かかと笑う。


「先生、翼を広げることさえ出来ないこのわたしの、一体どこが不遜なのでしょうか?」


 ムッと顔をしかめて突っかかる楽毅がくき


「そうむくれるな。お前にひとついい言葉を教えてやろう」


 孫翁そんおうは、司馬法しばほうにこういう言葉がある、と言ってからその一節をそらんじる。


「およそ人は愛に死し、怒りに死し、威に死し、義に死し、利に死す」


 司馬法しばほうは、今より二百年以上前に【せい】の宰相さいしょうを努めた司馬穰苴しばじょうしょという人物がまとめた兵法書である。

名宰相めいさいしょうが残したこの言葉は人間を必死の行動へと駆り立てる動機について述べたものだ、と解説を加えた上で孫翁そんおうは、


楽毅がくきよ。お前にはひとつでも当てはまる動機はあるか?」


 と問うた。


「わたしには……ありません。わたしには何も無い。空っぽなんです……」


 楽毅がくきは唇を噛みしめてうつむくしかなかった。自分には生に対して何の気力も無いのはわかりきっていたことであり、結局それを再認識させられただけであった。


楽毅がくきよ。お前は戦う前からけておるのだ。殻を被ったまま生まれることさえも出来ない雛鳥と同じだ」


 ──あぁ、わたしは生きながらにして死んでいるんだわ。


 自分を捕らえていたものはかごなどではなく、自分自身でおおかぶった殻であることを師は伝えているのだ、と楽毅がくきは理解した。


 ──確かに、わたしは不遜だわ。


 師から向けられたこの苦言は、彼女の心の深い所に鋭く突き刺さる。


「……はい」


 楽毅がくきは素直にうなずく。そのあおい瞳からは、まるで宝石のような涙がボロボロとこぼれ落ちていた。


楽毅がくき。お前にいとまを与える。ひとつで良い。お前が生きる動機を見つけ出すまでここに戻ることはならぬ」


 孫翁そんおうはそれだけ言い残すと車輪に手をかけ、器用にそれを操り、元いた場所へと戻って行った。


 楽毅がくきは師の背中にゆう──左右の手を胸の前で組んで頭を下げる礼式──を向け、言いつけどおり兵学所を後にするのだった。

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