【斉】──
中華大陸の東端に位置し、東は渤海や黄海に面し、中央に泰山を有する大国である。
朝廷の置かれた【周】王朝の権威は完全に失墜し、七雄を始めとした国々が覇権を賭けて争う戦国時代。
七雄とはすなわち、
【秦】──
【魏】──
【韓】──
【趙】──
【楚】──
【燕】──
【斉】──
この七ヶ国をいう。
七雄の中で今一番躍進している国といえば西端に位置する【秦】であり、次が【斉】である。
【秦】という国はかつて蛮族とさげすまれ、諸国からまともに相手にもされなかった小国であったが、十数年前に商鞅という法家が登用されて強固な法整備が成されると、たちまち中華大陸一の法治国家として富国強兵を果たしたのだった。
【斉】という国もほんの数十年前は脆弱と嘲笑われた小国であったが、孫臏という稀代の兵法家を登用したことによって軍事改革が成され、当時最強を誇っていた【魏】軍を討ち破り、一躍強国へとのし上がった。
今はこの西の【秦】と東の【斉】の二強の時代で、他の諸国はそのどちらにつくべきか侃々諤々と議論を重ねているという状況であった。
【斉】の国都、臨淄──
広大な区画を堅牢な城壁で覆った中華大陸最大の都市で、その人口は五十万にも及ぶ。
通りを歩けば服と服が擦れあって一日でボロボロになり、行き交う馬車は轂──車輪の中央の太い部分──がぶつかりあい、すぐに破損すると言われている。
かなりの誇張はあるものの、それに近い繁華を誇っていることに違いは無かった。
宮仕えの官人や軍人──
諸子百家と総称される学者たち──
農民──
工人──
商人──
様々な職種の人間がひしめき合い、その日の糧を求めて必死に生きているのだ。
──埋没してしまいそうだわ。
雑踏に身を置くひとりの少女が、虚ろな眼差しを人ごみの中に漂わせながら、ふとそんなことを思った。
少女の名は楽毅。【斉】から見て北西に位置する小国・【中山国】の出身で、兵法を学ぶためにこの臨淄までやって来た留学生である。
今、彼女は孫翁と呼ばれる兵法家の門を叩き、その下で修業中の身であった。
楽毅は中華人でありながら、左右で三つ編みを結いこんだ長髪は夕陽のように紅く、凛とした瞳は宝珠のように碧かった。
彼女の母親が異邦人であり、その影響によるものである。
母がどこの国の出身なのか、楽毅は知らない。
楽毅がまだ物心ついて間も無い頃、母は弟を産んですぐ忽然と姿を消した。父はその事についてただひと言、母は死んだ、とだけ彼女に告げ、その死因も、母の素性に関しても何ひとつ語ろうとはしなかった。
また楽毅自身も、何となくそれに関して訊ねるのを避けてきた。
父の背中があまりにも悲しそうだったから。
父を悲しませたくなかったから。
しかし、父はそれ以降、楽毅とその弟にひとりで邸宅から出ることを禁じ、たまに外出する時でも常に布で頭を覆い、紅い髪を完全に隠すよう命じた。
そうなれば当然、友達など出来るはずもなく唯一、同居していた従妹の女の子だけが彼女の話し相手であり親友であった。
たしかに迷信や過大な固定観念が幅を利かせているこの時代において、その外見は面妖であり、畏怖の対象であった。
しかし、それならばなぜ父は異相の母と結ばれたのか?
父は本当に母のことを愛していたのだろうか?
母は本当は死んでなどおらず、実は離縁させられただけなのではないだろうか?
それならば、自分も弟も愛されていないのではないだろうか?
年月を重ねるにつれ、楽毅の胸の内に様々な疑念が芽生えると、それらはモヤモヤとした不快な感情として彼女の胸の奥に巣食うのだった。
籠の中に囚われて、羽を広げることも許されずにただ囀るだけの雛鳥だ、と人生を悲観するようになった。
それと同時に外の世界への憧れは日に日に肥大化してゆき、時折父の目を盗んで邸宅を抜け出したりもした。
焦がれた外の世界。楽毅は不安と興奮の中、勇気を出して同世代の少年少女の元へと歩み寄った。
しかし、そこにも彼女の居場所は無かった。あったのは拒絶の眼差しと心無い言葉だけ。
楽毅は閉鎖的な思考に捉われた人々と、それを育んでいる【中山国】に失望した。
そんな彼女が唯一心を惹かれたのが、躍進著しい東の大国・【斉】と、それを支える孟嘗君という女傑の存在だった。
【中山国】の将軍である楽毅の父の元には多くの人々が来訪し、その度に語られる【斉】の情勢と孟嘗君の動向を、楽毅は物陰からワクワクと胸を躍らせながら聞いていた。
【斉】に行きたい──
【斉】の国都・臨淄は五十万もの人間を内包した大都市である。そこへ行けば何かが見えるかもしれない。そこへ行けば自分の無機質な心に新しい風を吹かせられるかもしれない。
そう期待していたのだった。
実際、この臨淄は【中山国】とは大いに異っていた。
同門の師弟達の中に彼女の外見をなじる者は無く、また街の人々も時々物珍しげな視線を向けることはあったが、特別気にする訳でも無い。
みんな生きるのに必死なんだ、と楽毅は思った。
だから自分のためにならないような些事に割く時間など無いのだ。
臨淄はそんな人々の活力に満ちた都市なのだ。
──わたしは、何に必死になればいいの?
楽毅はかまびすしい雑踏から逃げるように視線を下に落とし、心の中で自らに問うた。
楽毅は【中山国】の将軍の娘である。しかし、将軍の娘だからといって父と同じ軍人の道を歩まなければならない訳ではない。
彼女には四つ年下の弟がいる。将来、彼が父の後を引き継ぐはずである。
たしかに今の時代、女性でも身を立てようと刻苦勉励する者も少なくは無い。
しかし、楽毅にはそんな野心も無く、かといって一度も会ったことも無いような男の元に甲斐甲斐しく嫁いでゆくほど聞き分けのよい娘でも無かった。
とにかく楽毅は【中山国】から出たかっただけなのだ。
外交的に孤立してしまっている【中山国】はあまりにも閉鎖的であり、噎せ返るような息苦しさを感じていたから。
父には、兵法を学ぶため、と適当な理由をつけて留学を頼みこんだ。
はじめは渋い顔で反対していた父であったが、必死の説得が実り、三年という期限を設ける事でそれを承諾したのだった。
しかし、【斉】へ入国するまでにも困難があった。【中山国】が外交的に孤立していることは先にも述べたが、特に【斉】とは完全に交友の道を閉ざしており、楽毅はいったん【趙】を経由して趙国人と詐称し、【斉】に入ったのだ。
ようやく念願の臨淄にやって来た楽毅であったが、彼女はそこでも大いに打ちのめされた。
たしかに険しい山岳に囲まれた【中山国】とは違ってそこは開放的であり、どんな人間でも受け入れてくれるような気風があった。しかし、その自由な気質は彼女に心地良さをもたらすことは無かった。
誰も彼もが己のことに一生懸命なこの場所は、結局自分の心の無機質さを余計浮き彫りにさせるだけなのだ。
──あの人もこの人も、誰も彼もわたしのことを知らない。知ろうともしない。
ならば、今ここに立っているはずの楽毅は存在していないに等しい。肩がぶつかれば邪魔に思うだろうが、せいぜい路傍の石につまずいた程度の些細なことだろう。
──わたしは一体何をしてるんだろう?
日陰となっている民家の壁に背をもたれながら、楽毅は先ほどまでの出来事を思い返してみた。