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第十八話『グラデーション』

 わたしは『魔の葬送』の深紅のドアを開けた。


 かつては月蝕通りから異界へとわたしを誘ったこのドアにも、もう慣れてきた。


 日常に戻れ。

 自分の力の限界は、もう判っただろう。


 誰に言われるでもなく、しかし決定的な何かからそう告げられている気がする。慣れるという事は、それが日常に取り込まれたという事だ。


「ニガバナさん、お久し振りね」


 カウンターから出てきて壁に飾った造花を直しながら、マスターが優しく微笑んだ。


「お久し振りです――」


 そう返事をして、自分の声に覇気が無いのに気付く。


「ニガバナさん、今日はお仕事はお休みなの?」


「はい。今日明日と連休です」


「連休を頂いているのに、少し元気が無いわね」


「すみません、頭の中が――行き詰まってしまって」


 マスターはよいしょと唸るとカウンターに戻っていった。


 わたしはカウンター席――いつもの席に座った。もうこの席に座るのも慣れてしまった。そしてミルクセーキやオレンジジュースを注文するのにも。


「何か飲む?」


 マスターの声は優しかった。性別を超越し、世間を達観できている人間が到達できる優しさ――なのだろうか。


「モカを――下さい」


 わたしは、このバーに通い始めて、初のモカを注文した。『cafe 魔術師』ではいつも好物のモカを注文しているが、何故か今までここではモカを注文した事が無かった。


「分かった」


 マスターは余計な事は何も言わず、モカを淹れ始めてくれた。

 その気遣いが嬉しく、心地好かった。


 軽く息を吐いてぼーっとする。


「もしもしそこのニガバナさん」


 いきなり斜め後ろから名前を呼ばれて驚いた。振り向くと、紺色のスーツ姿の中年サラリーマン――サボリーマンこと中条さんが、眼鏡をくいっと直しながらテーブル席に掛けていた。


「あ――中条さん、お久し振りです」


「お久し振りです。ゲッセイ月辰本社営業一課の遣り手、中条雲雀なかじょうひばりです」


 そう言って営業スマイルを浮かべた中条さんは何時にも増して上方の芸人っぽかった。


「ニガバナさん、さっきルルイエさんも仰ってましたけど、元気無いですねぇ」


「やっぱりそう見えますか」


「はい。私は株価とお客様のコンディションは見通しますので」


 そして、カウンターにモカが注がれたカップがことりと置かれ、マスターが言った。


「中条さん、無理にニガバナさんにちょっかいをかけなくても良いのよ?」


「ちょっかいだなんてそんな。私はニガバナさんとビジネストークをしようとですね」


「ビジネス――ですか?」わたしは唐突な仕事の話に真面目になって言った。


「はい。うちの課から正式にですね、ニガバナさんに単発の配達を以来したく」中条さんも真面目にそう言った。


「はい――ではお話を伺います」


 中条さんはゲッセイという青果会社に勤めている。そして小口の配達――フルーツの詰め合わせを数個、法人に届ける予定が唐突に入ったらしい。緊喫の案件ではないが、たまたま他の業者たちが現在は小口配達を単発でやるのを嫌がっており、フルーツロール宅配便有限会社――つまりわたしの所に依頼してみてはどうかと、中条さんのほぼ独断で決めたとの事だった。


「自分の裁量が大きいのね」マスターが微笑む、


「自分の裁量で動けるのは最高ですよ。会社勤めでありながら会社をツールとして自由に振る舞える。この贅沢は中々味わえません」


 わたしはそううそぶく中条さんから荷物の容量や個数、単価と期日を訊き、スマホにメモをした。特に負担になる仕事ではなく、社長からも「ああ行っといで」とあっさり承認を貰えるタイプの案件だし、何よりも配達先は――『cafe 魔術師』だった。


「『cafe 魔術師』さんは、仕事でもプライベートでもよく行くんです」


 わたしは目の前に置かれたモカを見る。その琥珀にあの店のオーナー――嘉山さんの背中が見えた気がした。


 モカが注がれたカップに少し口を付けた。甘く、喉から何かが暖まっていく。


 誰も空き地の事件の事は口に出さない。

 誰も力及ばなかったわたしを責めない。


『魔の葬送』というバーの、今日の浮世離れした空気感。この場所に慣れたというのはやはり勘違いだったのだろうか。同じく、よく通っている『cafe 魔術師』ではあんに世俗的に考え事をしたり、話をしていたのに――。


 その時。


 何かが。


 頭の中を。


「ニガバナさん、どうしたの?」


 中条さんにトーストを載せた皿を運んでいたマスターがそう言った。


 わたしは少し硬直していた――今、頭の中を、過ぎ去っていったインスピレーションを捕まえようとして。


「いえ――あの、今、何か――重大な閃きを得たような気がして」


「見失っちゃったのね。それなら、頼りなさいよ、あの人を」


 わたしはハッと息を飲んだ。


「積尸気さぁん」


 バーの最奥の席――闇の玉座へとマスターは呼び掛けた。


 今日もそこに魔王は居た。


「積尸気さん、ニガバナさんが大きな魚を逃がしちゃったんだって」


 マスターの優しい声に、魔王――積尸気さんは会釈をした。

 わたしに。そしてあの事件に対して。


 会釈を返す。この儀礼だけは、あの老人に対して欠かせない。


苦花にがばな。お前は自分の名の事をどう思う」


 魔王はそう問い掛けてきた。


「――珍しく、そして幸福の願われていない名前だと――ずっと思っていました」


「別の名が欲しかったか」


「いえ、わたしはわたしです。襟瀬苦花えりせにがばな。この名前のもとに、わたしは定義されてきました」


 魔王・積尸気さんはゆっくりと頷いた。


「この私――積尸気せきしき学祖がくそはな」


 わたしは驚いた。積尸気さんが自分語りを始めた事に驚き、フルネームを名乗った事にも驚いた。


 がくそ――漢字はどう書くのだろう。


「――かつて北方の国に籍を置き、汚い仕事をし、命じてきた」


「はい――」


「供養の徳よりも呪いの方がまさったのであろうな。今ではこの杖が無からば歩く事すらままならぬ」


 そう言って、積尸気さんはワイングラスを少し傾けた。闇に映える、生き血のような深紅のワインを。


「苦花。お前はまだ引き返せる。それは撤退ではない。偶機から、お前は魔のことわりの埒外にて答えを得たのだ」


「その――答えが判らないんです」少し、わたしの目頭が熱くなっていた。「答えとは――空き地の殺人事件の答えなのか、魔と聖の答えなのか、それとも――早音さんや色々な人と知り合えたご縁の答えなのか、今はもう、ぐちゃぐちゃで――」


 ――その時。


 積尸気さんが。


「――ふっ」


 微笑んだのだ。


「苦花。お前は魔にも聖にも囚われていない。かつてお前自身がたどり着いたグラデーションを持つ人間だ。成れたではないか。自身の理想像に」


「――グラデーション」


「そうだ。お前はどの方面にも尖らず、多角から答えを得ようとしている。すべての事柄にグラデーションを見出だしている。ひとつの極致を知ればひとつを失う。だが、お前は未だ、何も失ってはいない」


 言葉が出なかった。


 積尸気さんに――認められたのだ。


「良かったわねニガバナさん。積尸気さんの言う通りよ」マスターがにっこりと話しかけてきた。「事件はやがて解決される。あなたは多角的に答えを得ようとした。そしてあなたは成長した。それで良いのよ」


 ――それで良い、か。


 妥協ではなく、到達を果たしたのだと、わたしは認められたのだろうか。


 わたしはモカに少し口をつけた。


「――わたしには、根強い願望があります」


「――願望ね」


「どこか遠くに行きたい。閉塞感から解放されたい。この町から出ていきたい――様々な逃避願望が、これまでにわたしの人格形成を邪魔してきました」


 マスターは黙ってわたしの話を聞いていた。


「さっきルルイエさん――マスターはわたしが成長したと仰いました」


「ええ。あなたは成長したわ。本当にそう思ってる」


「ありがとうございます。でも――成長したからには、結果を出さなくてはと今、考えています」


「結果?」


「わたしの願望、願い――を叶えるための結果。つまりこの事件を、この町で生きてきたわたしの人生の総括として、終わらせなけらば、わたしはどこにも行く事ができないのではと」


 何故か目頭が熱かった。

 視界が揺れていた。

 わたしは、知らずに泣いていた。


「おいおいおいおい」中条さんが狼狽えた声を出した。「ニガバナさん、そんな泣くような事じゃありませんよ」


「――自分で、自分を追い詰め過ぎよ。ニガバナさん」


 マスターも少し深刻な声でそう言う。


 ――だが。


「――事件はもう解決に向かっている。そしてわたしは答えを得ていると言っても――何も判らないんです」


 言葉を振り絞るのが精一杯だった。

 事実、わたしは未だに思考の迷宮に居る。


「――苦花よ」


 沈黙を守っていた魔王から呼び掛けられた。


「――はい」


「答えを知り、事件が解決したとて、魔の理も聖の力も変わらぬぞ」


「それは――そうでしょう――」


「が故に、お前はグラデーションという武器を得た。なのに、何故それを活用せぬ?」


「グラデーション――」


「お前の美徳であり最大の力であるグラデーション。多様の概念。その段階のいずれかに於いて終止符を打つ事は、お前自身のわだかまりに決着を付けるのに間違ってはおるまい」


「――はい」


「つまりはな、お前自身が元々は極論家なのだ。であるが故にグラデーションが森羅万象にあると自身に言い聞かせようとしている。お前の一番の成長は、真に多様を認める事だ」


「わたしは――極論家だったのでしょうか」


「魔の裏は聖ではなく、お前のように懊悩する人間だ」


 マスターが会話に割って入ってきた。「ちょっと積尸気さん、それはいくら何でも言い過ぎよ。ニガバナさんも苦しんでるんだから」


 わたしは――。


 わたしは、一体。


 迷い子として彷徨していたわたしのアイデンティティの居場所が分からない。わたしは今、どこに居るのだろうか。そして何を求めているのだろうか。


「ニガバナさん」


「はい――」


「あなたは真面目に働いてるし、根っこも凄く良い子なのよ。たくさんの人間を見てきた私には判るわ。だから――」


 ――事件に関わって、少し調子が乱れているだけ。

 そうマスターは括った。


 しかし、わたしは今、呆然と項垂れていた。

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