記憶が、
わたしは、神代さん――あの聖女の待つベルベット・ルームに行き、その圧倒的な聖性を目にし、震えていた。
神代さんはわたしに力を抜くように告げた。
そして――神代さんの手で、聖なる方向に向けた祈りのようなものを、全身に注入された。
朧気な記憶の中でも、あの全身を揉みほぐされたハンドマッサージの事だけは鮮明に憶えている――施術の最中、わたしは細かく震え、自分でも信じられないような喘ぎ声を出し、完全に快楽に
神代さんのハンドマッサージを思い出すたびに脳の奥がじんわりと痺れてくる。快楽物質が分泌されてくるのが分かり、とろんと眠たくなってくる。
わたしは、ザクロ林のプレハブ小屋から記憶もそぞろに帰ってくると、いつの間にか眠りに就いていた。全身が心地好く、温かかった。
そして、いつの間にか次の日の朝が来ていた。
ハッとして時計を見る。もう九時前だ。爆睡していたらしい。
だが、今日は仕事は休みだ。先日と併せての二連休だった。
ベッドで上半身を起こすと、私は両腕を交差させて自分の身体を抱いた。
神代さんの、あの手の温かさと神聖さがまだ身体に残っている――頭に深く刻み込まれたハンドマッサージの記憶を反芻すると、鼓動が少し早くなり、呼吸も――短く、荒くなってきた。
わたしは身支度を整え、いつもの国道でスクーターを走らせていた。
『魔の葬送』でランチを摂りながら、マスターや積尸気さんに今回の事を報告するためだ。
設楽家のザクロ林――神代さんの所に赴いたのは調査のための情報収集が目的ではあったが、正直、わたしはあの聖女に圧倒されて目的は果たせなかった。ただ、襟瀬苦花というわたしの名前は憶えてもらえただろう。
――それに。
神代さんが語っていた、北方の魔――積尸気さんに対する認識や、わたしに悪いものが溜まっていたという台詞も気になる。何にせよ、『魔の葬送』に行ってそれらの件は相談してみたい。
スクーターを徐行させながら、月蝕通りに入った。
――あれ?
違和感が生じた。
ここは、こんなにゴミゴミとしただけの味気無い通りだったのだろうか。もっと異世界じみて、わたしを非日常に連れて行ってくれそうな道筋だったはずでは――。
だが、それは一瞬の事で、『魔の葬送』がある最果てに到着すると、違和感も消えていた。
スクーターを停め、わたしは深紅のドアを開けた。
「こんにちは――」
挨拶をすると、マスターがこちらを向いた。何故か、真顔だった。
「――ニガバナさん?」
「はい」
「あれ? ニガバナさんだよね? オーバーオールとハンチング帽子だし」
「え。苦花ですよ」
「イメチェンでもした? 何か別人に見えたわ。雰囲気、変わったわね」
「そうですか?」
少し、違和感が生じた。
もう慣れてきていたはずのこのバーの雰囲気が、少しだけ変わっていた。
――何故だろう。
わたしはカウンター席に座るとパインジュースを注文した。
そして、マスターに話を切り出す事にした。
あの設楽神代さんの事を。あの聖女の力にに圧倒された事を。
少しパインジュースに口をつけると、あのザクロ林のベルベット・ルームでの一部始終を説明する。
「――それで結局、神代さんのハンドマッサージを受けて、帰ってきたんです」
「だからかしら? 今日は妙にニガバナさんがスッキリして軽やかに見えたのよね」
「確かに体はスッキリしましたし、頭も冴えてきてるような――気もします」
マスターはにっこりと笑うと、静かに頷いた。
「それで、事件の情報は得られたの?」
「――それは」
――それは。
わたしはあの聖女にただ圧倒され、慈悲によるハンドマッサージをされただけだった。そして、わたしは快楽に溺れていた――。
「――進展はありません。あの神代さんの前ではわたしは無力でした」
「――うん。積尸気さんも言ってたものね。ニガバナさんにはまだ武器が無いって」
俯いてしまった。
わたしはここに何の土産話も持って来れなかったのだ。
「積尸気さーん」
ハッとした。
マスターが積尸気さんを――あの魔王を召還した。
最奥の席。そこに今日も魔王は居た。
薄暗い闇の中、それよりも遥かに
「ニガバナさんが設楽さんの所に行って、元気になって帰ってきたよ」
マスターがそう言うと、魔王・積尸気さんはわたしに会釈し、その鋭すぎる眼光でわたしの中の何かを、射た。
――見られた。
外見ではなく、心の内を。
何故か、その確信があった。
「――苦花」
低く、よく通る声で魔王はわたしの名前を呼んだ。
「――はい」
「設楽神代と対峙して、自身が溶暗したか」
自身を――溶かしてしまった?
「いえ――わたしはわたしです。襟瀬苦花。そこにブレはありません」
「一切揺れていないのか?」
ことばに詰まった。だが、わたしは現に存在しているし、ここに居る。
「はい。神代さんのハンドマッサージを受けて――癒されました。これで事件をより深く調査する気力が湧いてきました」
「そもそも、お前は何故探偵ごっこから調査へと舵を切ったのだ?」
「それは――早音さんが、わたしの大切な友人が被害に遭ったからです」
積尸気さんはわたしの目をじっと見た。しばしの沈黙の中、魔王は確実にわたしの目を通してこころを覗き込んできていた。
「――ならば」ゆっくりと、魔王はことばを紡ぐ。「お前は何故、浮かれているのだ」
――え。
浮かれている――わたしが。
「どういう事でしょうか――」
「お前の中の魔は友人の被害によって増幅しつつあった。それはいずれ武器を持たぬお前の武器となっていたかも知れぬものだ。だが、お前はあの設楽神代の聖性により、魔を浄化されつつある。つまるに、このままお前は事件を忘却に追いやり、市井として静かに暮らす方向に歩みつつある」
わたしは黙っていた。頭の中の情報をすべて処理できなくなっていた――。
「――わたしは、神代さんと関わった事によりヒーリングされ、事件に対する情熱と執着を失いつつあるという事でしょうか――」
「違う」
魔王は即答した。強く、わたしを哀れむように。
「お前は凌辱されたのだ」
――今、この魔王は何と――
わたしが――神代さんに凌辱された?
「わたしが――神代さんに辱しめられたと――」
「お前の中の魔をすべて浄化し、快楽に溺れさせ、市井として生きる事を選択させる。それもひとつの道だろう。だがな、設楽神代は独断で、独善のもとにお前にそれを強要しようとした。事実、お前は変わった。何も情報を得られなかった事を、何の苦もなく話す程度にはな」
愕然としていた。ことばが出てこない。
「聖性を以てお前に聖を強要し、快楽を以て友人の仇を忘れさせる」そして積尸気さんはわたしの目を見ながらつづけた。「それは、魔の所業そのものではないのか?」
違う。
違う
違う。
わたしは、わたしは――。
しかし、何が違うのか分からなかった。
あの神代さんのハンドマッサージの快楽が急におぞましく思えてきた――わたしは震え、喘ぎながらあの快楽に溺れていた。
それは――凌辱だったのか。精神的な、肉体的な。
神代さんに圧倒されてわたしは逆らえなかった。
そして聖なる祈りのようなものを注入された。
それを、積尸気さんは看破したのだ。
「――わたしは」力なく下を向きながら、ことばを振り絞った「神代さんに凌辱され、無力化されたのでしょうか」
「そうだ」
項垂れた。
その時、マッチを擦る音がし、紫煙の匂いが漂ってきた。
マスターが紙煙草に火を着けていた。そして煙をふぅっと吐き出し、わたしの目を見る。
「精神的な魔だの聖だのはよく分からないけどね、苦花さん」
「――はい」
「あなたはちゃんと友達を想って行動してる。設楽神代さんも、積尸気さんも、そこは理解してくれていると思うよ」
だからね、とマスターは続ける。
「何も自分を責める事はないよ。元気と健康が一番よ」
「――ありがとうございます」
マスターのフォローが嬉しかった。だが、同様に神代さんが怖かった。わたしが調査している正体不明の事件が、恐ろしかった。
――武器が。
武器が欲しい。
強い武器が。
パインジュースでカラカラに乾いていた喉を潤した。
「これから、わたしはどうすれば良いんでしょうか」
ボソッとマスターに呟く。
「――私ね」
「はい」
「初めて苦花さんがここに来た時に、いきなり「今かかってるこの曲何ですか?」って聞いてきたの、今でも憶えてる」
「はい――」
「個性的な子だなって。自分をしっかり持ってる子だなって」
「――ありがとうございます」
「その自分自身があなたの武器だし、魔や聖を超越した個性よ」
この世はグラデーションなんだから。とマスターは括った。
「――そうですね。個性も自分自身もみんな、大切です」
「あなたは今ね、設楽さんや積尸気さんの圧倒的な存在に少し驚いているだけよ。その内分かるし、自分の道を見つけられる。だからね、身の安全にだけ気を付けて、今は自由におやりなさいな」
「――はい」
そうだな、と思った。
神代さんから凌辱された事はもうどうしようもない。身体的な快楽よりも、こころに半端に聖を植え付けられた方が問題なのだ。
現にわたしは今、個を失いこうして迷っている。
かつてわたしはグラデーションが答えだと言った。人には必ずグラデーションがある。
魔や聖に振り切れずとも、それらを両立して生きていく事は可能なはずだ。
少しだけ、心が軽くなった。
ほんの、少しだけ。
マスターにお礼を言い、『魔の葬送』を後にしたわたしは『Cafe 魔術師』へと向かっていた。あのベルベット・ルームで情報を得られなかった分、またオーナーの嘉山さんから話を聞こうとの目論見だ。
今は、ただ事件の真相、そして深層に向けてスクーターを走らせるしかない。
こうする事でしか、もやもやを晴らす事ができないと思っている。
少し天気が悪く、ぽつぽつと雨が降り始めた。
屋根付きのスクーターで良かったが、それでも少しは身体が濡れる。
――しかし。
早音さんは今でも意識不明なのだ。
わたしは友人のために、自分自身のために、走り続けようと必死だった。