月辰湖。
大型商業施設に次ぐこの町のランドマークだが、ほとりの道路を走っているとどこか寂寥とした思いに駆られる。
これはわたしが事件の事や早音さんの事で焦っているからではなく、普段からこの湖の周囲には寂しさがある。そしてその孤独な道路を走り抜けると、月辰山の麓に到着する。
午前。
わたしが運転するスクーターはそろそろあの登山口に到着しようとしていた。やはり早音さんと一緒に来た時の事を思い出す。ザクロ林の記憶よりも鮮明に、あの笑顔と明るさを。
わたしは少し唇を噛むと、スクーターを登山口の駐車場の端に停めた。アスファルトに足を着く。以前、早音さんと一緒に歩いた場所だ。しかし今回は一人であの神秘のザクロ林に向かい、一人であの巫女・設楽神代さんと向き合わねばならない。
――頭で考えてばかりいては。
行動が鈍くなる。
わたしは深呼吸をすると、登山口の土を踏んだ。そのままなだらかで木漏れ日の射す山道を登る。前に来た時にはあまり気にかけなかったが、空気が清浄に感じられた。
他の登山者は居ない。だが、樹木に囲まれた土の上を歩くというのはここまで安心感と癒しを与えてくれるのかとぼんやり思っていた。設楽さんの所まで通っているというペナルティを持つ青少年たちや、『Cafe 魔術師』のマスター、嘉山さんの息子さんも、この道を歩いて多少なりともこころに安寧を得られていたのだろうか。
そうであってほしい。
わたしのスニーカーに踏まれる地面がざくざくと軽い音を起てる。そして二十分ほども歩いたら、周囲の樹々に――
ザクロ林。
かつてザクロ農園だったという、設楽家の敷地。
前回、神代さんが白の上下にスーパーロングの黒髪を揺らして現れたのは、この辺りだった。確かにその方向には細い横道がある。ザクロ林の中に一人だけ導くかのような細い道が。
来たる神代さんとの再会に緊張を覚えてはいないと言えば嘘になる。だが、わたしはもう探偵ごっこではなく調査を始めているのだ。早音さんのために。積尸気さんの力も借りて。そして、何よりも自分自身の納得のために。
少し歩みを止めていたが、わたしは横道に入った。
道は細いとは言っても普段から踏み締められている道だった。それにザクロの樹々の密度は低く、間から空は見え、陽光は射している。そんな明るい道から現れた神代さんの生活感のようなものを想像してしまい、やはり人間にはグラデーションがあると改めて思う。
魔王に関する警告をしてきた聖女にも自分の暮らしがある。当然だ。
少しだけうねっている道を歩み続けると、
――そして。
向こう側に、古びた木製の住宅とプレハブ小屋が見えた。
あのザクロ男の都市伝説でまことしやかに言われていたプレハブ小屋とは、恐らくあれの事だろう。
そして、あそこに設楽さんか、神代さんが居る。
今、この場に早音さんが仮に居たとしたら、また「霊感がバチバチ反応してる」と言うのだろうか。
わたしには霊感は無い。ただ、願いと真実を知りたい気持ちだけがある。
その気持ちは十分にわたしを動かす原動力、そして勇気となる。
わたしはプレハブ小屋に向かった。ハンドマッサージのボランティアを行なっているのならば、自宅らしき木造住宅ではなくこちらを使っているのだろう。そしてプレハブ小屋はあの都市伝説内で最終的に語られる場所であった。そんな話に乗せられて設楽さん親子に迷惑を掛けてしまったわたしの、けじめ染みた感情もどこかにあった。
結構大きなプレハブ小屋だ。十畳は越えているだろう。
窓には内側から紫色のカーテンが引かれている。
入口の前まで来たわたしは、意を決してドアを二回ノックした。力を込め、そして落ち着きながら。
「はい」
ドアの向こうから声がした――そして、ドアが開いた。
白いセーターに白のズボン。スーパーロングの黒髪――神代さんが現れた。
「改めて初めまして。先日『Cafe 魔術師』の嘉山さんからからご紹介いただいた、襟瀬苦花です」
「聞いているわ。お入りなさい」
微笑を湛えながら神代さんはわたしをプレハブ内へと招いてくれた。
「はい――お邪魔いたします」
そろそろとわたしはプレハブ内に入る。
――そして。
息を、飲んだ。
そこは、紫の世界だった。
紫の
。
「光に過敏な利用者さんもいらっしゃられるから、少し暗くしてるの」
「――はい」
わたしはこの空間に圧倒され、ぎこちなく返事をしてスリッパに履き替えた。
――ベルベットの胎内。
そんなイメージが脳内に浮かぶ。
「今日は、色々あって不安定になってるからお越しいただいてくれたの? 何でも宅配便さん」
空間に押されながらも何から話そうか迷ったが、わたしはまず早音さんの事から説明しようと決めた。
「以前はご迷惑をお掛けしました。あの時に居たわたしの友人――御浜早音さんと言うんですが、彼女が――」
「事件の被害に遭って重体、未だに意識不明ってところね」
――え?
「ご存知でいらっしゃいましたか。やっぱり誰かに聞かれたんですか――?」
「いいえ」
そう言うと、神代さんはわたしにデスクの椅子を手で勧めた。
少し戸惑って座ると、神代さんはベッドに腰掛けた。
「――分かってたのよ。昨夜、星の運びを視て、カードでリーディングを行なったから」
「星――に、カード、ですか」
「ディヴィネーションの一種ね。私の占術」
「占い――ですか」
幼少時に児童向けオカルト本で読んだ記憶がある、占星術、カード占い。
「この前お会いした時にも言ったけど、私、神がかりなの」手を伸ばし、デスクの引き出しから神代さんは片手サイズの小箱を取り出した。「――だから、あなたがここに来たのも、自身の情緒の快復のためではないって、知ってる」
「え――」
神代さんは木製の小箱の留め金を外し、中からカードセットを取り出した。
それを器用に七枚取り出し、扇形に伏せて手に持つと、「一枚選んでみて」とわたしに言った。
黙って、一番左のカードを指差した。
神代さんはそれを表に向ける。
車輪が二つ付いている乗り物に兵士が搭乗している絵柄が、わたしの方を向いて現れた。
「――戦車の逆位置。普段はこんな占い方はしないんだけどね。それでも判る程度にあなたは今、焦ってる。武器も無いのに暴走してる」
――武器。
積尸気さんに問われた事。
わたしには、武器が無い。
「それでね。星の運行を視てもね、あなたの半身は北方の魔星で翳ってるの」
「はい――よく、意味が分かりませんが――」
「北方の魔が立ちはだかって、あなたの進行は遠回りになってる。本来ならもう、到着すべき場所に落ち着いているはずなの」
「あの――北方の魔とは――」
神代さんは色素の薄い瞳でわたしの目を――いや、こころを覗き込もうとしたように見えた。わたしは為す術も無かった。ただ、神代さんに覗き込まれてしまった。
「――あなたがね、精神的な拠り所としている人物。その人。それは魔そのものであり、またそれらを統べる魔王の星」
――積尸気さん。
積尸気さんのせいで、わたしは遠回りをしている?
「それは、本当なのでしょうか――」
「私は神がかりなの」
この巫女――聖女は、積尸気さんに原因を求めた。そしてわたしはただ、動揺していた。この紫のベルベットの空間の中、クリティカルな意見を放たれた気がして。
「あなたはね、本来ならもう答えにたどり着いているの。何回もね」
「答えに――」
「事件の事。ご友人の事。自身の願いの事。そしてこのアッシャー界での宿命の事。すべての答えに」
わたしは混乱していた。そもそもわたしは早音さんの仇討ちのために、事件の情報を少しでもかき集めようとここに来たはず。それが――今やまるで、わたし自身の事を片っ端からこの巫女・神代さんに読まれている。
わたし一人の手に負える相手ではない。
積尸気さんが魔王ならば、目の前のこの女性――神代さんは本物の聖女だ。
――助けて。
――助けて、積尸気さん、社長、早音さん。
無意識に握り締めていた手が震えていた。怒りや恐怖のためにではなく、聖女の力を目の当たりにして。
神代さんが、そっと手を重ねてきた。
「――怖がらなくてもいい」
――だから。
「身体の力を、抜いて御覧なさい――」
重ねられた神代さんの手は温かかった。
自然と力が抜け、緊張が
神代さんが腰掛けていたベッドから立ち上がった。
「ベッドに横になって」
鈴の鳴るような、それでいて冷然とした反論を許さない声で神代さんはわたしに指示した。
「――はい――」
わたしは椅子からふらりと立ち上がり、スリッパを脱いでベッドに上がった。クッションが柔らかい。
「うつ伏せになりなさい」
はい、と返事をし、ハンチング帽子を脱いだわたしは枕に顔を埋めるように、うつ伏せになった。そして脚を伸ばした。
――完全に。
無防備だ。
「じゃあ――始めるね」
神代さんが静かに言った。
りん、とベルが鳴り響いた。神代さんが鳴らしたのだろうか。うつ伏せになって脱力しているわたしには確認できなかった。
「ん――」
わたしの腰に、神代さんの手が添えられた。
優しい手だった。ぬくもりがあり、何かのパワーが流れ込んでくるかのように感じた。
手が添えられたまま、時間が止まったように感じた。神代さんは無言だ。わたしは――少し呼吸が激しくなってきていた。身体が熱っぽい。手を動かさない事によるヒーリングがある事など知らなかった。
そして神代さんの手が少し動き、わたしの背中に添えられた。
ぞくりとした。歓喜で。
――静かだ。
ただ、わたしだけが呼吸を荒くしている。
「凄く――」神代さんが静かに言う。「――悪いものが溜まってるね」
神代さんは手をゆっくりと滑らかに動かし始めた。わたしの背中を撫で続け、時に揉む。
「――これから、悪いものを全部流してしまうからね」
神代さんは両手をわたしの背中に添え、柔らかく、温かく動かし続けた。
「――ッ!」
わたしは声にならない声を上げた。
それは悲鳴ではなく、歓喜に由来していた。
今のわたしは、快楽の海に溺れるひとりのちっぽけな人間に過ぎなかった。