「では改めて。私はゲッセイ月辰本社の営業一課、
サボリーマンさんは流暢に挨拶をすると、頭を下げて両手でわたしに名刺を差し出してきた。
「は――はい。ありがとうございます――」
わたしも両手で名刺を受け取る。
マスターがニコニコと笑いながら言った。
「この人いつもサボりに来てるけどね、すっごい遣り手の営業マンなのよ」
『魔の葬送』にポロトクを配達に訪れていた。今回も午後の最終便だ。
わたしはマスターから受け取り票を貰うと、ミルクセーキを注文して先日のザクロ林での出来事を――話した。必然的に、寅浜建設へと配達に行った事や、早音さんとの出会いも伝えてしまい、会社の守秘義務を破ってしまった事に気付いて「あ」と自分の口を押さえる。今日のわたしは口が軽すぎた。
「大丈夫。ここには今、私と中条さんと積尸気さんしか居ないから」
マスターの微笑みに助けられた。だが、うちの社長に申し訳ない気持ちがわだかまる。
「今度から気を付ければいいのよ。そこの中条さんなんてペラペラとよく喋るんだから」
中条さん――今日もここに居るサボリーマンさんの名前か。
「中条さーん、そろそろニガバナさんに挨拶したら? もう顔見知りでしょ」
そして――「では改めて。私はゲッセイ月辰本社の営業一課、中条雲雀と申します。今後ともヨロシクお願い致します」と丁寧に挨拶をされたのだ。
年齢は三十代後半くらいだろうか。中肉中背で紺色のスーツのいかにもサラリーマン然とした男性だ。その表情と造作には上方の芸人っぽい雰囲気もあり、そこが顧客に受けているのだろうと察した。
「うちは青果を扱ってる会社なんですよ。これでご縁ができたのでニガバナさんの所に今度、宅配依頼を行なうかもしれません」
そう言って中条さんはニヤッと笑った。
「でさ、中条さん。さっきのニガバナさんの話どう思う? 聞いてたでしょ? ザクロ林での事」
「ああ。聞いてたよ。てかさ、ルルイエちゃんも知ってるでしょ。あそこの事」
「――
二人の会話を聞いて驚く。サボリーマン――中条さんが情報屋気質なのに併せてマスターも地獄耳っぽいにしても、あの結構離れたザクロ林の事をまさか知っていたとは――。
「狭い町内だから聞こえてきちゃうんだよね。どうしても」
マスターはわたしの内心を見透かすようにそう言った。
「あそこは昔、果実農園やっててさ、うちと取引があったんだよ」
「え、中条さんの会社――ゲッセイさんとですか」
驚いて少し声が裏返ったわたしに頷きながら、中条さんは続けた。
「もうお金は貯まったから、ザクロ農園は畳んで専念したい事があるって」
「専念したい――事」
「あそこね、今、ボランティアでハンディキャップを持っている青少年たちへのハンドマッサージをやってるんだよ」
予期せぬ情報に、頭の中が真っ白になる。
唐突過ぎる。考えもしなかった方向から事実を告げられた。
都市伝説のザクロ男だとか、早音さんの自称霊感がバチバチ反応していたとかいうあの白い女性に怪しさを覚えていた事を考え――それも、わたしの中の偏見だったのかと思い至った。
「あの設楽さんのザクロ園ね、娘さんが居てね――今三十路くらいだったかな」
あ。と声を上げそうになった。
「
そう語る中条さんからは芸人っぽい雰囲気は消えていた。その語り口はとことん真面目だ。
「なのに、勝手に――わたしたちみたいに、ザクロ男だとか言って物見遊山で見物に来る人間が後を絶たない――」
「そうだね」
中条さんはシンプルにそう言って、頷いた。
「設楽さん、結構良い体格してるし寡黙で人間嫌いだったからね。悪い噂を立てられやすいって言うのかな。今は娘の神代さんと二人暮らしのはずだよ」
――わたしたちが遭遇したあの白い女性は。
「じゃあ――」
「ニガバナさんたちが会ったのは、娘の神代さんだと思うよ」真面目な表情で中条さんは言った。「それであの設楽さんが殺人鬼だなんてとんでもない。ハンディキャップを持つ人たちが通ってる場所だから、ぞろぞろと見物に来られるのは迷惑なんじゃないかな」
わたしは頭を殴られたようなショックを受けていた。
素人探偵を気取って、早音さんを利用し、挙句の果てに今ではボランティアをやっているザクロ林の設楽さんにも迷惑をかけてしまった――しかも、事件の真相に近付く情報など、何も得られずに。
「積尸気さーん」
いきなりマスターが最奥の席に呼び掛けた。
闇がゆっくりと動き、長い銀髪が流れ、ワイングラスを片手に魔王然とした老人がこちらを向いた。
「ニガバナさんたちがあのザクロ園に行っちゃったんだって」
「――設楽のザクロ園か」
「そうそう」
「それで――苦花とやら、自身はどう思ったのか。最重要たるのはそこだ」
初めて積尸気さんから名前を呼ばれたのと、その鋭い眼光と共に放たれた言葉の重さに、わたしの背筋は少し冷たくなった。
「は、はい――わたしは、あのザクロ林に、都市伝説の現場というよりも、人の手と、その息吹を――感じていました」
「そこに魔は視えたか」
「魔は――」
――在ったのだ。
それは。
「ザクロ林に魔は確認できませんでした」そしてわたしは、薄々思っていた事を素直に言う。「あの場での魔は――わたしたちでした」
しばしの沈黙が場を支配し、魔王である積尸気さんが沈黙を破った。
「――狭く生きる事を選んだ設楽は、外界に何事をも訴える事ができなかった。
胸が痛む。
「だが、苦花とやら――魔の姿態として認識されようとも、それを正す事は可能だ。愚を自覚する限りに於いてはな」
わたしは少し固まり、そしてゆっくり頷いた。これからやるべき事に思い至ったからだ。
「――やるべき事は」
「やるべき事は――」
わたしと積尸気さんの声が重なり、お互いに黙った。
「ニガバナさん、あまり気負わない方が良いかもね。確かにザクロ林でうろついたのは間違いだったかもしれないけど、積尸気さんも別に怒ってる訳じゃないからね」
マスターがやんわりとそう言ってくれた。
だが。
「はい。でも、わたしが次にやるべき事を、積尸気さんは教えてくれました」
「どしたんだい、ニガバナさん、
中条さんは不思議そうな顔をしている。
「そもそも都市伝説とは異種のパーツを付与されたキメラなんです」わたしは熱っぽく喋った。「そのパーツに覆われた本質をあの時の同伴者――早音さんに伝え、そして偏見を正すのが“まず”わたしがやるべき事。やらなければいけない事です」
――でないと。
これから、一歩も進めない。
マスターは黙ってわたしの熱弁を聞いていたが、やがていつもの柔和な表情に戻りうんうんと頷いた。
「――自分で考えて、導き出した答えに沿って進むのは悪い事じゃないわ。うん、やってみなさい」
それからすぐに、わたしは『魔の葬送』を後にした。
帰社して事務処理を済ませ、社長に挨拶をして急いで帰路に就く。
――すぐに。
早音さんに連絡を取らねばならなかった。
わたしは帰宅するなりスマホのメッセージアプリを開いた。素早く画面をタップすると、早音さんにメッセージを送る。
「明日、わたしの仕事が終わった後に会えませんか? 話があります」と。
すぐに返信の通知音が鳴った。
「なぁに? もしかして深刻な話? 聞くよ! またお店選ぶね」
わたしもすぐに返信する。
「ちょっと落ち着いた所で話したいんです。役所通りを抜けた所の『Cafe 魔術師』でお会いしませんか?」
「いいよ! 苦花ちゃんがお店選んでくれたの嬉しいな」
そして待ち合わせの時間はまた夜七時と決め、わたしはスマホを置いた。
しばらく、考え込む。
早音さんに、どう切り出せばいいのか。
言葉をどう選んで語ればいいのか。
見たいものだけを見ようとし、信じたいものだけを信じようとしていたわたしたちが結局のところ、魔そのものであった事。そこが重要だ。
それを真摯に伝えるのは、難しいだろう。
早音さんの短絡的だけど無邪気な性格を考えると胸が少し苦しくなった――だけど、積尸気さんの言葉を思い出して、わたしは勇気を奮おうと己を鼓舞する。
積尸気さんは「正す事は可能だ」と断言した。わたしの目を見ながら。
これは早音さんとわたしに対する糾弾ではない。二人で共に――成長するためのハードルだ。
――それにしても。
わたしは、ずっと他人に迷惑をかけてばかりいる気がする。
仕事でも社長はわたしの知らないところでかなりフォローしてくれているのだろうし、『魔の葬送』のマスターには世話を焼かれ、積尸気さんにはアドバイスを頂いている。早音さんの事を内心では拒絶し、ザクロ林の設楽さんには偏見による迷惑をかけてしまった。
――わたしは。
一体、何なのだろう。ただのちっぽけな人間なのに、他人に迷惑ばかりをかけている。
わたしは。わたしは。わたしは。
だからこそ、会社と『魔の葬送』が居場所を提供してくれるのが嬉しかった。
社長や積尸気さんに認められたいと頑張ってきた。それが空回りだったとしても、わたしは頑張る理由が欲しかった。
それが、気付けば自分が魔として定義されてしまう立場に居た。
――だから。
やり直そう。
探偵ごっこも、世界への認識も。
この町から遠くへ、ずっと遠くへ行きたい気持ちに変わりはないが、それにはまずこの――月辰町という密室をどうにかしなければいけない。わたしは心理的に束縛され、そしてこの密室には施錠されている。
その時。
何か、大切な――大切だけど、とても大きくて醜いシルエットがわたしの頭の中をよぎった。
刹那の出来事だった。
わたしはそれをふたたび思い出そうとしたが、もう脳内の暗闇の奥へと消えてしまった。
何だったのだろう。
少し、胸騒ぎがする。
早音さんと早く会って、説明しなければならない――その思いが強迫観念じみてわたしを縛り付ける。
今夜の夢はとてもグロテスクになるだろうと、理由も分からずそう確信した。
――早く、明日の朝が来ますように。