「――しっかり考えて、自分なりの結論を出したのね」
マスターが柔和な表情のまま言う。決して嘲けっているのではなく、慈母のごとき微笑みを浮かべて。
「探偵はパターンで犯人は多様、ね。クリティカルな意見だと思うわ」そしてマスターは――最奥の席に視軸を遣った。「積尸気さん、ニガバナさんが今、凄く鋭い事を言ったよ」
「――聞こえている」
バーの最奥の闇――魔王の玉座にも似た――から、低いが通る声で返事があった。
積尸気さんは喫っていたロシア煙草を灰皿で消すと、わたしの顔をその鋭い眼光で射った。
「類型化され、整数とされたものの裏には
――積尸気さんに。
この闇を纏った老人に。
わたしは褒められた。
「また何かややこしい会話してるね」
いま気付いたが、前回も居たスーツのお客がテーブル席に座っており、会話に参加してきた。
何となく、わたしはそちらにも会釈をする。
「あの事件の現場、何も無かったでしょ? トラハマもあそこから引き上げるか真剣に考えてるんだってさ」
トラハマ――とは。
「すみません、トラハマって何ですか?」
わたしは素直に質問をした。
「寅浜建設。月辰町からの受注であの空き地の基礎工事やる予定だったんだけど、色々あって、ね」そしてスーツのお客は肩を竦めた。「いくらサボリーマンでも営業やってると、色々耳に入るんだよな」
初耳だった。
「――問い掛け、問いを立てる行為は重要だ。魔の解は、まず怪に形態を与えねば得られぬ」
積尸気さんの声にハッとする。「混沌たる魔に、如何なる解法で姿を与えるか。それは自己に潜在する魔を
「積尸気さん積尸気さん、ニガバナさんが硬直しちゃってるじゃない」
マスターが掌を縦に振りながら苦笑する。
わたしは現実に引き戻された。
やがてスーツのお客が「ルルイエちゃーん。ご馳走様」と、お勘定を済ませて出て行き、わたしはマスターと仕事の話など、雑談に移っていた。積尸気さんの方にも気を配っていたのだが、以降はマスターが運んで行ったワイングラスを黙って傾けているだけだった。
しばらくして、わたしも十八時になる前に営業本社へ帰ろうとポロトクの受け取り票を貰い、『魔の葬送』を後にした。
帰社して事務処理を済ませ、帰宅する。
当たり前のように次の日がやってくる。
これを何年繰り返したのだろう。変わらない飽き飽きとする日常――だが、素人探偵ごっこを始めた事により、少しは人生に張りができ、あの積尸気さんからも褒められた。こうした些細な変化は、偶然を装って因果律の支配下でやがて廻ってくるものだ。
「え」
次の日、出社したわたしは午前最後に配達予定である荷物の宛先を見て軽く声を出した。
――寅浜建設。
場所はあの空き地からさほど離れてはいない。
荷物の中身は工具の詰め合わせ。
運命論は信じてはいないが――運命の歯車が廻るようにわたしは午前中の配達を済ませた。そして最後に寅浜建設行きの荷物をスクーターに積んだ。
「それ重たいからね。気を付けんだよ」
心配する社長に「はい、慎重に運びます」と返事をして、わたしは空き地の方角――月辰新住宅地の方向にスクーターを走らせた。寅浜建設は、あの近辺に会社を構えていたのだ。
嘘のようにわたしは、寅浜建設へと配達に行く事になった。
――かと言って。
一般人、それも勤務中であるわたしに何ができるのか。
――できる事なんか。
恐らく、何もない。荷物を届け、受け取り票をいただき、帰るだけだ。
しかし、今は何らかの歯車が噛み合っている気がする。わたしはただ、それに流されていれば――。
――いや、違う。
考えろ。襟瀬苦花。
わたしは「ヤジウマ」ではない。そして積尸気さんから褒められたことに矜持を持て。
あの闇を纏う魔王さながらの老人に、わたしは褒められた。
――あの老人に。
もっと褒められたい。
社長やお客様以外にも、わたしは褒められたい。
自分の中の幼児性と理性が半々に膨らんでいる――だが、寅浜建設まではそこまで遠い距離ではない。わたしは煮え切らない気持ちのまま、そのコンクリートの三階建て社屋が目視できる距離に着いた。
ビルトインガレージの構造で、駐車場となっている一階相当部分にはトラックやバンが停まっており、隅の方は半ば雑多な物置と化している。端の階段を登った所が事務所だろう。わたしは邪魔にならないよう、階段横にスクーターを停める。
「よいしょ――」
工具の詰め合わせだけあって今回の荷物はかなり重たい。わたしは二の腕に力を入れると、段ボール箱を両手で持って階段をゆっくり登った。運良く事務所は自動ドアだったので、開くと同時に荷物を持ったまま「おはようございます。フルーツロール宅配便です」と声を張った。
デスクに就いていた灰色の作業着の中年男性が応対してくれた。「ご苦労さま。おっ。重たいなこれ」と苦笑しながら荷物を持ち奥に運んで行き、わたしは受け取り票にサインをいただく。
後は、挨拶をして帰るだけだ。
折角、合法的に寅浜建設に来たのに――何もできる事はない。
会社の信用問題もある。世間話とは言えそんなに馴染みでもない配達先に、殺人事件の話を唐突に振る事もできない――うちの社長のメンツは潰したくはない。
――無力だ。
『魔の葬送』で積尸気さんが言っていた事を噛み砕いて考えられないし、なので実行もできない。わたしは今、何かの歯車が噛み合っている最中ではなかったのか。例えそれが魔の属性のものだとしても――。
受け取り票を手にし、作業着の中年男性に丁寧に挨拶をするとわたしは階段を降りた。
周囲に誰も居ないと思って、軽く溜め息を吐く。
――はぁ。
その時、わたしは魔属性の歯車はやはり噛み合っていた事に気付く。
それは唐突に掛けられた声。
つい最近聞いた声。
「あなた、この前会ったでしょ」
わたしは驚いた。この一階駐車場に人が居たとは思わなかった。
スクーターの近くに、恐らくわたしと同年代であろう若い女性が立っていた。
――茶髪の。
ポニーテール。
黒のスラックスに白シャツのその女性は、言葉を続けた。
「この屋根が付いてるスクーター、見覚えがあるなーって思ってたら、オーバーオールとハンチング帽のこれまた見覚えがあるファッションの子が降りてきたからさ」
わたしはこの女性をすぐに思い出した――と言うよりも、忘れられなかった。
あの空き地、殺人現場で絡んできた三人組の一人。
――わたしを。
「野次馬」と言った女性。
自分が硬直しているのが分かった。どう対応していいのか――咄嗟に判断できない。
「は? あなたもしかして人見知りする方?」少し驚いた様子で女性は言った。「あ。ここうちの親父の会社なの。別にあなたを
――そういう事か。
「――そうなんですね」
自分の声に抑揚が無いのが分かる。
「へえ。フルーツロール宅配便有限会社? ここの従業員なんだね」
スクーターのステッカーを見ながら女性は言った。
「私今日は専門の授業無くてさ。親父にお小遣いせびりに来たの」
専門学生? なのだろうか。有り得る。しかしこの距離感の近さは──わたしの苦手なタイプかもしれない。
「ねえ」
わざとらしい微笑みを作って、女性はわたしの目を見た。
「名前、教えてよ」
「──襟瀬、です」
ここは配達先なので、どうせ配達員である自分の名前は知られているのだ。
「エリセ? それ名字? 名前?」
「──名字ですね」
「じゃなくってさ! 下の名前!」
わたしは積尸気さんの言葉を思い出していた──魔に、姿を与え得る事。それが解法――。
この女性は今、まだ全容が判らないわたしという人間に対して姿を与えようとしているのだ。それは己の魔を用いる事でもある――そんな事も積尸気さんは言っていた。
「苦花です」
わたしはある解法を思い付いた。
「ニガバナ? 珍しい名前だね。苦いに花?」
「はい」そしてわたしは強く言った。「あなたの方は、何と仰るんですか?」
「ん、私?
わたしは、目の前の女性に──魔に姿を与えた。続けて魔の解法を使う。それは非常に簡単な事だった。
「空き地でお会いしましたけど、殺人事件の事、何か知ってらっしゃるんですか?」
唐突なのは分かっているが、強く言う。
女性――御浜早音さんは黙って、わたしの顔を見た。
負けない。
逆に質問してあげる。事件の情報を少しでも得る。何も知らないのなら、あなたも「ヤジウマ」だろうと――分からせる。
「うん、まぁ──ね、一応、殺されたのは知り合いの知り合いくらいの奴だったから──」
御浜早音さんは、わたしに気圧されたのか少し狼狽えて喋った。だが、その内容はわたしに取っては重大な告白だった。
「え。苦花ちゃん、事件の事調べてるの? それ趣味?」
負けない。
「はい趣味ですね。数少ない趣味です」
ぽかんとした御浜早音さんは、二秒後に破顔して笑った。
「ちょっと、苦花ちゃん本気で面白いって! 同い年くらいでしょ? 今度遊ぼうよ!」そして私の肩を二回叩く。「今日仕事終わるの何時? 二人でご飯行こ?」
正直、強がったわたしが恥ずかしくなってきたが、ここで強がった事は積尸気さんから褒めてもらえそうな、そんな気がした。
――何よりも。
新たな情報も得られそうだ。
損得ずくの対人関係は良くないのだろうが、正直この女性――早音さんとはタイプが違いすぎて仲良くなれそうにはない。しかし、わたしももう成人だ。付き合い――ある程度の縁は大切にしなければとも思う。ましてや、この早音さんは事件の被害者の事を知っている。
「──十九時以降なら」
「じゃあ十八時くらいまで働いてるの!? すっご──」
だったら苦花ちゃんを
小馬鹿にされているのだろうか。
「あなたの事」笑いの種類を変えながら、早音さんは言う。「空き地で見た時に、すっごく可愛いと思ったんだぁ」
そして――早音さんはわたしの頬を触ってきた。
「やめて下さい」
思わず後ずさる。
「ジョークだよジョーク。でも空き地で苦花ちゃんを見かけて、声掛けてみよ? ってみんなに言ったの私だよ」
そうだったのか。意図が掴めないが、現代の学生なんてそんなノリで生きているものなのだろうか。
じゃあ──と、早音さんがメッセージアプリのID交換を要求してきた。わたしはスマホを出してIDを登録する。
「夜になったら連絡するねぇ。なるべく近い店を選んどくから」
──結局。
歯車は、噛み合ったままだったのだ。
話は進展した。
わたしは営業本社への帰路にスクーターを走らせながら早音さんの事を考える。
触られた頬っぺたに、まだあの冷んやりとした手の感覚が残っていた。