私たちは硝子のうつわに閉じ込められた悪魔であった。
閉じ込められたまま 運ばれて安く売られる
商人は天国へ行けるが 私たちはどこへ運ばれるのだろう。
真鍮の封印が剥がれる日に太陽の光が差し込む。
その日に焦がれ 私たちはうつわの中で膝を抱える――。
「――っていう歌詞なの。このジャズは。タイトルは『ボトル・エンジェル』だね」マスターはそう言うと、カウンター上で開いた音楽事典から顔を上げた。「それにしてもハンチング帽のお姉さん、入ってきてすぐ店内の曲に興味を持つなんて、珍しいね」
「すごく良い音楽だったものですから」
わたしはそう言うと、オレンジジュースに口を付けた。
そう。
『魔の葬送』の深紅のドアを開けたわたしの耳に聴こえてきた素敵なジャズ。まずそれに興味を持った。言語は判らないが、ダウナーな曲調で落ち着いており、そして──少し哀しかった。
エスニックな雰囲気で赤を基調とした店内。わたしはつかつかと歩いてカウンター席に座り、オレンジジュースを注文し、マスターに「この曲の事を教えて下さい」といきなり訊ねたのだ。
分厚い音楽事典をわざわざスタッフルームから取り出してきて、マスターは日本語訳とタイトルを調べてくれた――音楽通なのだろう。事典が置いてあるのにも驚いたが、マスター自身も背が高く、筋肉質で肉付きも良い人だった。そして知的な雰囲気があり、性別など、超越していた。
初対面なのに話しやすく、ついついわたしも口が軽くなってしまう。
「硝子のうつわに閉じ込められた悪魔の歌なのに、タイトルは
「――よくある事ね」
マスターは試すようにわたしの目を見る。少し、意味ありげで妖艶な笑顔。
「ハンチング帽のお姉さん、ここら辺の人じゃないでしよ」
「判ります?」
「うん、雰囲気でね」
そう言うとマスターはふふと笑い、わたしは改めて店内を見渡した。
外通りの混沌とした雑然さとは正反対に、無国籍風な情緒をテーマとしている洒落たバーだった。
客数はわたしを含めて三人ほど。スーツのサラリーマン然とした男性に、あと一人は――最奥のテーブルに座っている長い銀髪の老人。
何かに──魔のようなものに導かれて店内に入ったわたしを待っていたのは、意外にも落ち着いた空間だった。
そして、昼間でもあるし、何よりもわたしはスクーターで来ているので流石にお酒は控えたが、注文したオレンジジュースも程好い酸味で喉が潤った。
マスターに「初めてなので、食事メニューを見せてもらってもいいですか?」と訊いた。
はい、と黒革張りの高級そうなメニューを手渡された。
「ごめん、うち最近はね、珍味だけは在庫が無いの。業者が色々あって飛んじゃってさ」
珍味。そんなものも置いていたのか。
メニューを捲ると、まるで当然のようにカタカナ五文字の魅力的な名詞が目に飛び込んできた。
「このオムライスをお願いします」
マスターは、はぁい、と優しげに返事をすると、カウンター奥のキッチンに向かった――その背中は広く、頼れそうに見えた。
この人は、酸いも甘いも噛み分けているのだろう。いや、このバー自体が、浮き世のくだらない各種カテゴライズを超越して、混沌のすべてを受け入れるうつわの役割を果たしているような――そんな印象を持った。寂しい国道に戻る前にわたしが飛び込んだ、何でも在りそうな多様的空間。
あの細道から飛び出してきた小鬼めいた子供に感謝するべきところだろう。わたしは不思議の国のアリスのようにここに
「ルルイエちゃーん、お勘定!」
いつの間にかカウンター横に来ていた、サラリーマン然としたスーツのお客が声を張った。
ルルイエちゃん。それがマスターの源氏名らしい。
「はいはぁい、ちょっと待って」そしてマスターが完成したオムライスを銀色のトレイに載せてキッチンから出てきた。「ゆっくり食べてね。うちの看板料理だから」
わたしは小声で「いただきます――」と言うと、目の前に置かれた大きなオムライスの端をナイフでカットした。
ハンドタオルで手を拭いているマスターに、スーツのお客が高めの声で言った。
「ルルイエちゃん、もう聞いた? あれ。あの殺人事件の被害者の事」
「聞くって何を?」
「あっちの。ほら月辰新住宅地の空き地のさ、殺された人の話。良くないウワサを聞いてさ」
わたしは口に運んでいたフォークを止めた。行儀が悪いが、あの殺人事件はこの地方都市に住まう人間に取っては一大トピックなのだ。自然とスーツのお客とマスターとの会話に聴覚を集中させてしまっていた。
「あの被害者、相当素行が悪かったんだってさ」
「ふぅん――」先を促すでもなく、かと言って拒否するでもなく、マスターは曖昧に返事をした。
「あのお殿様ばかり住んでる辺りでも居るんだなぁ、ヤカラに憧れてる若いの」
「――若さって、そういうものよ。軌道も照準も基本的にブレているか、皆無なの」
「色々悪い事してたみたいだよ」そう言いながらスーツのお客は長財布からお札を取り出し、マスターに支払う。「ルルイエちゃんも気を付けてな。まだ犯人が捕まってないし物騒だから」
マスターは「はぁい、またいらっしゃってね」と笑顔を作り、去り行くスーツのお客に小さく手を振った。
わたしは少しずつオムライスを食べてはいたが、聞き耳も立てていたのにマスターは気付いていたらしく、にっこり笑うと「最近物騒だよね」と話しかけてきた。
口の中のオムライスを咀嚼し、飲み込むと「ええ、配達先でもよく話題になります」と返事をした。
「配達の仕事をしてるんだね」
興味深そうなマスターに、『何でも宅配便』業務の自社の事を説明した。営業の一環として愛想良く、どんどん繋がりを作って。と、社長から常日頃言われている。
「それならさぁ」マスターが何か思い付いたようだった。「今度からうちに珍味を届けてくれない? もちろんあなたが取ってきた仕事として、あなたに配達してもらいたいの」
心の中で小さくガッツポーズをする。臨時ボーナス――とは言っても寸志だが――間違いなしのわたしの手柄だ。
「喜んで承ります」
マスターはふふ、と笑うと最奥――銀髪の老人が座っている席に視軸を遣った。
「
――積尸気。
そう呼ばれた老人は、傾けていたグラスを置き、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
肩まで届きそうな美しい銀色の長髪をセンターで分けている。
闇のような黒色のダブルのスーツに身を包んでいた。一目で高価そうなオーダーメイドだと判った。
顎まである銀色の口髭に威厳を感じる。
――何よりも。
その鋭い眼光が、怖かった。
だが、マスターは気さくに言葉を続けた。
「このハンチング帽子のお姉さんがね、今度からうちにポロトクを届けてくれるんだって!」そしてわたしの顔を見て笑顔になる。「あの積尸気さんの好物なんだよ、ポロトク」
積尸気さんと呼ばれた老人はゆっくりとわたしたちに会釈をすると、またグラスに口を付ける。
ポロトク。
社長に伝えてポロトクなる珍味を調べてもらい、販路を探す。うちの社長はどういうルートからかそれを手に入れ、わたしに配達を頼む。いつものパターンだ。良し。
――しかし。
あの老人は。
古風な貴族然とした雰囲気があるのだが、遠目にも非常に威圧的な――闇のような何かを身に纏っている。わたしが話しかけるとしても、少し躊躇してしまいそうだ。事実、こうして意識するまであの老人は店の中の──闇だった。
「積尸気さぁん」
マスターが気軽にまた声をかけた。
老人は赤い液体が揺れるグラスを傾けながら、視線をこちらに向ける。
「さっきの話聞こえてたと思うけど、最近本当に物騒だから積尸気さんも気を付けてね」
ね? とマスターはわたしに同意を求めた。会話の橋渡しをしてくれているのだろう。
「は、はい。被害者は、その、素行が悪かったとか聞こえましたけど――そんな、そんな人間でもやられたら、あの、死に損ですから――気を付けるに越した事は、無いと、思います──」
老人の威圧感に圧倒されて、しどろもどろになってしまった。
――だが。
「『そんな人間』も、『死に損』等というものも、無い」
一瞬、時が止まる。老人の低くて通る声だけが、止まった時の中、響いた。
ハッとした。
わたしは今、慌てて本心――素で思った事を口走ってしまったのだ。それは被害者に対する侮蔑、それも伝聞を元にした偏見だった。
自分の顔から血の気が引いているのが分かる。
銀髪の老人――積尸気さんと呼ばれる年配の男性は語った。
「人間は自らが好む魔を産み育てる。どんな人間でもだ。魔に滅した者の
しばらく、その言葉を咀嚼したが、わたしにはよく意味が分からなかった。
マスターが苦笑した。
「ほらほらハンチング帽子のお姉さん、硬直しないでいいから。積尸気さんはああいうキャラなのよ。」
はあ――と、わたしはぎこちなく頷く。
「ああ見えて、よく怪談や不思議な話を語ってくれるし、博識なのよ。うちの店の最古参客で相談役」
――そうなのか。
意外とキャッチーであったこの店の、隠された一面を見た気がする。一筋縄では行かない外通りに存在する、一筋縄では行かないバー。そして、ここはわたしの新たな配達先。
そしてマスターは気さくに言った。
「折角だから、積尸気さんの見解も聞きたいな。あの殺人事件のさ」
老人はグラスを置き、煙草入れから一本の紙巻きを取り出し、マッチで火を点けた。薄い紫煙が漂う――珍しい煙草なのかもしれない。この老人には普通の市販紙巻きを喫うイメージが持てない。
「魔は裏側に生える」
「裏側って?」
「あの月にも裏側があるだろう。見えているのは表だ」
うーん、とマスターは唸った。
「また難しい事言うねぇ――」
だが、わたしの鼓動は早くなっていた。
――月の。
裏側。
それは、わたしが本当に行きたかった遠くの場所。わたしが本当に生まれたかった場所。この町から出て行きたいわたしの逃避願望を、端的に言い表す言葉だったからだ。
「それはそうとさ、積尸気さん。そのロシア煙草そろそろ無くなりそうでしょ? 入荷したから渡しておくねぇ」
マスターはそう言うとカウンターから煙草のカートンボックスを取り出した。
わたしは黙って残りのオムライスを頬張る。
少し冷えてしまったが、美味しかった。そして空きっ腹に対する美味は脳を刺激する──。
わたしなりに、あの殺人事件を調べられないだろうか。
あの老人に、慌てて迂闊な事を言ってしまった事の埋め合わせとして――いや、むしろわたしの返歌として、何らかを提示する事はできないだろうか。
「コーヒーも飲む? 今日はお代は負けとくよ」
老人に煙草のカートンボックスを渡してきたマスターが、わたしに向けて笑顔を作る。優しい表情だ。
「いただきます。ありがとうございます」
「エンシェント・ムーンっていう名前なの。うちのオリジナルブレンド」
やがて運ばれてきたコーヒーに口を付けた。爽やかで、コクがあり──胸の奥が熱くなる。
「ハンチング帽子のお姉さん、名前はなんていうの?」
「
「二ガバナさんね。あなた、何だか積尸気さんの孫みたいに見えるよ」
そう言うマスターの優しい微笑みが、あの老人の眼光と、この町の閉塞感と、まだ見ぬ殺人現場に重なった。