もしかしたら、僕はずっと気づいていたのかもしれない。
思えば、いくらでも手がかりはあったのだ。ただそれを忘れたように振る舞っていただけで、それらの違和感は、今の今まで僕の中に沈殿し続けていた。
あの日聞き取れなかった言葉。全てに失望したようなあの表情。
それを、最後まで見ないふりができるだなんて、愚かな勘違いを僕はしていた。
「利用、しようとしてたんだ」
「利用? 僕を、ですか?」
これは純粋な疑問だった。
「遥っていうより、遥の体質を、かな。私ね、遥が雨を降らせられるって知ったとき、嬉しかったんだよ。この子と仲良くなれば、私が死ぬとき、また大雨を降らせてくれるかもしれない。そしたら、沢山の人を道連れにできるかもしれないって」
彼方さんの声は、芯が通っていて、僕から彼女の言葉を疑う余地を奪った。
「……どうして、道連れがほしかったんですか」
「死にたくなんか、ないから」
僕の問いに、彼方さんは食い気味に答えた。そして息を吸って、彼女は続ける。
「死にたくない、私は死にたくないの。なんで私なの? 頑張ってきたのに、せっかくやりたいことができるようになったのに、なんで私なの? 私は聖人じゃないの、後腐れなくいなくなれたりしないの。こんな理不尽な世界、何か仕返ししてやらなきゃ、悔しいよ!」
感情的な叫びだった。彼方さんはもう、いつもの嘘が上手な彼女ではなかった。彼女は涙を流していた。両の手はワンピースをぐしゃぐしゃになるまで握っていた。
「遥と仲良くしてたのは、復讐のためだったの。みんな大雨で流れちゃえばいいって思いながら、遥と一緒にいたの。許されないことを、私はしてたの」
「彼方さん」
呼びかけるけれど、彼方さんは止まらなかった。乱れきった髪を目障りそうに耳にかけて、彼女は言った。
「三回目、会ったとき。遥が教えてくれたでしょ、『もう自分の意思じゃ泣けない』って。あのとき、がっかりしていいのか安心していいのか分かんなかった。利用しようとしてたくせに、それが上手くいかないってことにほっとしてた自分もいたの。わけ、わかんないよね」
「彼方さん!」
体が勝手に動く、なんて比喩表現だと思っていた。こうやって、自分が体験するまでは。
僕は彼方さんの肩を揺すって、彼女の目を見て、名前を呼んだ。目の前の僕を見てほしかった。
「どうでもいいんですよ、そんなの」
「……よくないよ」
彼方さんは僕の目を見ない。
「だって、彼方さんは選んでくれたじゃないですか。もう利用できなくなった僕と、それでも一緒にいてくれたじゃないですか」
「それは、自分のためで」
「それでもいい。彼方さんがどう思ってたとか、そんなこと分かりませんし、関係ないですよ。これは僕の気持ちなんですから」
体の中心から、際限なく熱いものが込み上げてくる。どうすれば伝わる。どうすれば彼方さんは僕を見てくれる。
「元々、復讐のためだったとしても、僕はあなたの声に、優しさに、明るさに、子供っぽいところに……僕の言葉を全部ちゃんと聞いてくれるところに、救われたんです、それだけ、なんだから」
彼方さんの言いたいことは分かった。違和感の正体も、あの日、聞き取れなかった言葉が『ごめん』だったことも。彼女が、どれだけ世界を憎んでいるかも。
それでも好きだ。僕は彼方さんが好きだ。
たとえ代わりに世界が終わるとしても、僕は彼方さんに生きていてほしい。それが、言葉にならないそれらが、伝わる術がほしい。
「僕は、彼方さんが好きです」
熱い。でも、どこが熱いのかすぐには分からなかった。
「……遥? それ、」
彼方さんの言葉は途中で聞こえなくなった。それよりももっと大きな音が、周囲を埋め尽くしたから。
痛い。空から落ちるそれの勢いはかつてないほどに強く、まるで頭から全身を撃ち抜かれているようだった。
それは、雨だった。今まで見たこともないような大雨が、僕と彼方さんを一瞬でずぶ濡れにした。辺りにはさっきまでの快晴をひっくり返したような曇天が広がっていて、すっかり夕方になったようだった。
「……め、だよ……か……」
彼方さんはまだ何か口を動かしていたけれど、やはりあまり聞き取れなくて、僕はなんだかおかしくなって笑った。そんな僕の様子を察して、彼方さんも馬鹿らしくなったって顔をしながら笑った。
散々笑った後、抱きしめられた。お互いに全身濡れているものだから、下がった体感温度の分、変に彼方さんの体温が目立って感じられて、このよく分からない胸のざわめきがバレてしまわないか心配だった。
「雨、振らせてんじゃん」
耳元で彼方さんが言う。
「誰のせいですか」
と僕は訊ねる。
「私のせい」
彼方さんは今までで一番、悪戯っぽく笑った。
どちらかともなく、僕たちはプールの中で大の字になって寝転んだ。空だったプールには、足の指が沈むかどうかくらいまで雨が溜まってきていた。
手を繋いでいた。これは僕からだった。降りやむ様子のない雨に晒され続けている体は心底冷えていた。それでも繋いだ右手だけはぼんやりと温かくて、僕はこのまま、この熱が消えてくれなければいいとだけ考えていた。
涙は多分、止まっていなかった。ふと隣を見ると、それは彼方さんも同じだった。彼方さんは僕の方を向いていた。
「風邪引いちゃいそう」
「いいじゃないですかそれくらい」
「今ごろみんな溺れてんのかな」
「さすがにまだ溺れるほど降ってませんよ。それに、住宅街までこの雨雲が届いてるかも分かりませんし」
あの日、母が死んだ日。確かに僕は記録的な大雨を降らせた。山が崩れ、翌日の朝刊が取り上げるくらいの、紛れもない豪雨だった。
しかし、この話には続きがある。
あの日大雨が降ったのは、僕たちが遠足に出ていたあの山と、近辺の農道だけだった。そこから一駅ほど離れた街の人間は、そんな雨が降っていたことすら認知していなかった。
呪いが及ぶのは、僕の半径数キロ圏内だけだった。つまりは、僕が視認できる範囲。視界に雨が入れば涙が出て、涙が出れば視界が雨に包まれる。
それが、僕の呪いだった。
「薄々、分かってたんじゃないんですか」
「なんのこと」
「……もういいです」
なんで彼方さんがこの廃校舎を最後の外出先として選んだのか。もちろん、全てが僕の考え及ぶことでもないけれど、僕が雨を降らせたあの日のことを彼方さんが調べたとするならば、そういう理由づけだってできる。
万が一、僕が涙を流すことになったとき、誰にも迷惑をかけずに済む場所としてここを選んだ、みたいな。
でも、どうでもいい。
真実を教えてくれないこの人の前では、全部想像上のことでしかないんだから。
「……僕、別によかったんですよ」
僕の呟きは雨の音に呑まれて、彼方さんには届いていないようだった。もしくは、聞こえないふりをしているのか。
どちらだとしても構わない。僕は空を見上げた。雨粒が眼球を打つ度に目を瞑りながらも、どん底みたいな色をした雲を睨みつけた。
なんだよ。それだけかよ。もっと降れ、全部なくなるまで降れ。
「もしどれだけの人が迷惑しても、それこそ世界が終わっても、彼方さんがいなくなって泣けない僕なんて、嫌になりそうですか……」
どん底の空が、彼方さんの顔に変わった。「目、瞑って」という声が、やけにクリアに聞こえる。僕は頷く。
嘘つきだ。実際のところ、僕は直前になってから一瞬、薄目を開けていた。
彼方さんでも緊張するんだな、と思う。
「……ああっ、もう」
目を開けると、彼方さんは僕の真横に転がって、同じように空の方を見上げるようなかたちになった。
そのまま彼女は、雨に溶けてしまいそうな声で呟いた。
「世界なんか、このまま沈めばいいのにね」