バイト終わり、簡易的な更衣室でエプロンを外していると、突然彼方さんから電話がかかってきた。
「ごめん、今日は会えない」
応答を押し、携帯を耳にあてた瞬間にそんな言葉が聞こえたものだから、僕は少しの間固まってしまった。
「そろそろ完成しそうなんだ。なんなら今日、もう続けて作業したくなっちゃって。自分でもよく分かんないんだけど、今じゃなきゃダメな気がするから。だから、ごめん」
僕には、なんで彼女が謝るのか分からなかった。
「分かりました。今は絵本がよりよくなることだけ考えてください。それが僕の一番の望みなので」
本心だった。もちろん会えないことへの寂しさもあったが、それ以上に、絵本の完成が近いと告げられて、純粋に一読者として胸が高鳴る自分がいた。
「井辺さん、そろそろお時間です」
電話の向こうから、看護師らしき女性の声が僅かに聞こえた。次いで、その呼びかけに返事をする彼方さんの声も。
「……ありがとう。ちょっと診察の時間が来ちゃったから切るね、また連絡するから」
「はい、あんまり気にしないでくださいね」
僕が言い終わると、すぐに電話は切れた。
彼方さんとの面会もなくなったので、今日はそのまま家に帰ることにした。外が明るいうちに帰路につくのは久しぶりだった。
五分ほどバスを待っている間に、叔母に連絡を入れる。僕が帰るかどうかで、彼女の夕食の支度に影響が出るからだ。最近は面会で遅くなるのが常なので、適当に駅の売店で買ったものを食べて済ませてしまうことが多かった。
連絡を終え、携帯を鞄にしまう。そのとき、ふと自分の右手が目についた。連日の業務の中で不意にしてしまった怪我や切り傷で、五本ある指のうち三本に絆創膏が巻かれていた。
頭の中に何かの映像が飛び込んでくる。筆を握りすぎてタコのできた手をひらひらと動かして笑う、誰かの顔。それが記憶の中の母親の姿だと気づくのに少し時間がかかった。
懐かしさと、自分の中にこんな映像が残っていたのか、という驚きが混ざった感情になる。つい一ヶ月ほど前の僕なら、こんな記憶、欠片も思い出せなかっただろう。
もういない人間のことを考えてもしょうがない。母のことに関して、気づけば自分自身の記憶にそう蓋をしていた。
その蓋が、徐々に開きかけている。
脳が必死に棚を漁って、埃の被った思い出の切れ端を集めようとしていた。かつて向き合うことから逃げた母の死を、もう一度咀嚼し直しているような感覚だった。でも、嫌じゃなかった。
バスに揺られながら母のことを思い返していると、案の定、絵が描きたくなった。やはり記憶の中の母は、何よりも一人の画家としてそこにいたから。
家に帰り、あらかたの用事を終えてから、自室の押し入れを探った。引っ越してきてから一度も開けていない、『未鳴透子』と書かれたダンボール箱を開封して、中を確認する。
そこには母の絵がいくつかと、幼い僕を抱いた母の写真が、薄いアルバムに数枚だけ挟まれていた。ずっと入院していたのだから仕方がないけれど、それにしても淡白な遺品だ。きっと母は、自分が死んだ後の世界に思いを馳せたりしない人だったのだろう。
アルバムを開き、そこに写った自分と、そして曖昧なままでいた母の姿を見る。並んだ写真たちの第一印象で、彼女は写真が得意じゃなさそうだ、と分かる。大体の写真で母はぎこちない表情をしていて、膝の上に座らされた僕は何も知らない様子で笑っていた。
その中にも、一枚だけ、母がなんの曇りもない笑顔を浮かべた写真があった。他の写真とアングルが違うあたり、撮影者は母の不意をついてこの写真を撮ったのだろう。
こうやって見てみると、母の顔は、彼方さんとは似ても似つかないものだった。パーツはおろか、それこそ雰囲気すらも似ていない。やっぱり記憶なんて不確かなものだな、と思う反面、少し安心した自分もいた。
母の面影があったから彼方さんを好きになったなんて、あまり嬉しいことではなかったから。母がどうこうという問題じゃなく、彼方さんを誰かと重ねて考えている自分が嫌だった。とにかく、そうでなかったと分かっただけ、収穫と言えるだろう。
自分の息子が、遺品を漁って収穫性がどうとか考えているなんて知ったらどう思うのだろう。
箱にしまう前に、改めて母の顔を見ながらそんなことを考える。
そして多分、この人は面白がるんだろうなと思った。