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第27話

「ねえ、遥」


 横顔のまま、彼方さんが訊ねる。


「なんですか」

「前のさ、遥が私に聞いてくれたこと、あれずっと考えてたんだけど」


 彼女がなんのことを言っているのか、察しがつくまでに数秒かかった。


「人がいつ泣くかって、やっぱりまだ分かんないけど。でも私は、綺麗なものを見て泣きたい。自分の体の中にないものを見て泣くのって、なんていうか、一番純粋な涙って気がするから」


 答えになってないよね、と言って彼方さんは困ったような表情を浮かべた。

 僕は彼方さんの返答を受け、ここ数日の出来事を想起する。

 美術館で思い出した母の横顔、あれはきっと、彼方さんの言うように純粋な涙だった。あの絵を改めて前にした今なら分かる。あれは、芸術に触れ、心が震えたからこそ出る涙であって、決して自己投影や感情移入から由来するものではない。

 じゃあ、あのときは?

 入水自殺を図っていた彼方さんの背中に対して僕が流したあの涙は、ただの通り雨の予兆なのか、それとも、もしかしたら。


「『井の中の蛙大海を知らず』ってことわざがあるよね」


 突然、彼方さんはそう切り出した。

 何を問われているのかは不明だったが、僕は肯首する。


「あれってさ、井戸の中っていう狭い空間に閉じこもってる蛙は、その外に広い海があることを知らないで、自分のいる井戸の中が世界の全てだと思い込んでるっていう、言っちゃえば視野が狭いって意味で使われるんだけど、私、昔からそれがしっくり来なくてさ」


 ただのことわざにしっくり来るも何もないだろう。

 やけに神妙な面持ちで話し続ける彼方さんを前に、僕の中の疑問符はその色を濃くしていく。

 対して彼方さんは、なんの滞りもなく、滑らかに口を動かして続けた。彼女の中には、確信めいた何かがあるように思えた。


「海の方だって、井戸の中に蛙がいることを知らないんだよ。いや、違うな。知ろうともしてないの。そこに井戸があることも分かってて、でも自分より狭い世界で生きている蛙に対して、海はわざわざ迎えに行ったりはしない。海は、ただそこにいるだけでいいと思ってる」

「……そういうものですよ」


 彼方さんの言っていることはなんとなく理解できた。けれど、そんなに世界が優しくできていないことは僕にでも分かる。

 みんな自分の視界がひらけてればそれでいいに決まってる。井戸の中なんか覗いたって、そこには気持ち程度の湧き水と蛙しかいないのだ。よほどの物好きでもない限り、そんなことに労力は割かない。


「じゃあ頑張らなきゃいけないのは蛙だけ? ただそこで生まれただけなのに、生きてるだけじゃ努力不足なんて言われなきゃいけないんだよ?」


 空想の話に、なんでこんな熱量を持てるんだ。そう思う気持ちはあったけれど、僕の口は勝手に会話の続きを練り上げる。


「そんな悪評だって、蛙の耳には届かないでしょ。蛙の見えてる世界は狭いんですから」

「納得いかないね」


 僕の反論を受け、彼方さんは唇を尖らせてそう言った。


「納得いかなくてもそうなんです」

「うるさい。蛙だって、見返してやれるんだから」


 彼方さんは強い眼差しを僕に向けた。手元のメロンソーダは、もうアイスが半分以上溶けて全体的に靄がかかってしまっている。


「今、そういう本を描いてるの。蛙が必死に井戸から這い出て、海を見返してやる話」


 ぽつりとその場に置くように彼方さんが言った。

 正直、意外だった。彼方さんが自分の仕事について語るのは初めてに近かった。

 彼女は絵本作家という仕事にある種の誇りを持っている。だからこそ、易々と人前でそれについて触れないものだと思っていた。


「普通は人に教えるものじゃないんだけどね。なんか、遥だからいいかなって」


 彼方さんは顔を伏せ、残っていたメロンソーダを一気に吸い上げた。それは、照れ隠しのようにも見えた。

 僕はそれを聞いて、胸がむず痒くなった。こんなに他人の奥底を見せられたことなんてなかった。昨日の佐紀も、きっと胸に飼っていたもののほとんどを僕に見せてくれていたのだろうけれど、なんだかそれとは違う感覚だった。

 ただ、単純に嬉しかったんだと思う。

 再び海に視線を戻す彼方さんの横顔を見ながら、僕は、この人のことが好きなんだと思った。


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