彼方さんは珍しく、待ち合わせの五分後にやってきた。相当に急いで来たらしく、停留所から走る彼女の額には僅かに汗が滲んでいた。
「ごめん、お待たせ」
元から責め立てるつもりなんてなかったが、彼女のあまりにもバツの悪そうな顔を見てしまうと、なぜかこっちまで悪いことをしているような感覚になった。
「そんなに焦らなくてもよかったのに」
本心だった。別に待つのは苦じゃない。
それよりも、僕との待ち合わせのために、詳しくは知らないが彼女にとって重要らしい用件を半端なまま切り上げたりしていないか、それが気になっていた。
「ちゃんと用事は終わったんですか?」
「うん、大丈夫。ちょっと時間かかっただけだから」
彼方さんはハンカチで額を抑え、左手で顔を扇いでいた。彼女の肌の白さは、あまり日に当たり慣れている人間のそれではないように思える。
ここ数日の行動は、彼女にとってもそれなりの負担がかかっているんじゃないだろうか。前に、精神疾患には日光が有用だとかいう話も聞いたことがあるが、仮にそれが本当であったとしても、過剰摂取はよくないだろう。
「今日行くところ、海……でしたっけ。暑いですし、せめて日陰のあるところにしませんか」
これは自分の素直な要望でもあった。
おそらく彼方さんの心配をしている場合ではないくらい、僕も太陽に対する耐性はほとんどない。加えて昨日からの頭の重苦しさもあり、とても元気に日差しを浴びていられるコンディションではなかった。
「ああ、それなら心配ないと思うよ。あそこ、ちゃんと冷房も効いてるし」
彼女の発言にどれほどの信ぴょう性があるのかは測りかねるのだけれど、僕はいつも通り大人しくついていくことにした。
彼方さんと一緒に乗り込んだバスは、僕のてんで知らない方面に向かって進んでいた。
目的地は彼方さんの家がある方面のずっと先の方らしい。
「まあでも片道一時間かかんないし、いつもは一人で行くんだ」
「なるほど」
「遥も気に入ってくれると思うんだけどな」
僕は顔を背け、窓の外へと視線を逃がした。どういう表情をしていればいいのか分からなかった。
果たして、彼方さんがバスを乗り継いでまで僕を連れていったのは、こぢんまりとした海の家だった。といっても、外観だけでいえば古民家のような佇まいをしていて、いわゆるイメージの中にある海の家の野性味みたいなものは微塵も感じられなかった。
それでもここが海の家だと分かったのは、実際に店の前の看板にそう書いてあって、店に入ってすぐ飛び込んでくるガラス張りの向こうに、視界に収まりきらない海岸の風景が広がっていたからだ。
「やった。窓側の席、空いてる」
彼方さんは呟くと、接客に来た店員に、『二人で』とハンドサインをした。昼どきを少し過ぎているためか待っている客の姿もなく、六割ほどの席が埋まっている程度の混み具合だった。
案の定、僕たちはすぐに席へと案内された。
「好きなの頼んで」
そう手渡されたメニューに、会釈を返してから軽く目を通す。やはり店の雰囲気と合わせられているのか、カフェでよく目にするようなレイアウトをされていた。
少し迷ってから、僕はホットコーヒーを、彼方さんはメロンソーダを頼んだ。
注文した飲み物が届くのもあっという間のことだった。店の広さもそれなりにあるし、スタッフも多いのだろう。厨房は見えないようにされているので、憶測でしかないが。
「ごめんね、昨日今日と振り回してばっかりで」
丸く形成されたバニラアイスをつつきながら、彼方さんは言った。いつもと同じ、あくまでどこか朗らかな声だった。
「謝らないでください。別にこんなの、なんでもないですから」
「分かった。じゃあ謝らない」
僕の言葉を待っていたかのような切り替えの早さだった。さっきまで弄ばれていたアイスがスプーンによって沈み込み、ストローが緑色に染まっていく。
「ここからの眺め、すごいでしょ」
この海の家は海岸よりも少し高い場所にあった。だから、視点を真下にでも下ろさない限り、まるで海の上にぽつんと浮かんでいるみたいな錯覚に陥る。
彼方さんが指さした先には、海岸から水平線までの景色が広がっていた。太陽光が反射した水色の海面に波以外のノイズは存在せず、果てのない広さだけがそこにあった。
「……綺麗」
自然と、そう零れていた。
見慣れていると思っていた海の、そのだだっ広さを前にして、さっきまでの思考の淀みが綺麗になくなってしまった。間抜けに口が開いて、顔の筋肉から力が抜けていくのが分かる。
「笑うんだ」
視界の端で、彼方さんが意外そうな声を上げる。
「え?」
「いや、別になんでもないよ」
分かりきった誤魔化しの台詞を吐いた彼方さんは、自分も窓の外を向いて、そして薄く笑っていた。