電車はあっという間に目的の駅に着き、ホームを抜けるとすぐ目の前に美術館への案内掲示板が置かれていた。写真を見る限り、どうやらわりと大きな建物らしく、午前中から待ち合わせた佐紀の判断が妥当であることを悟った。
「中にはカフェもあるらしいから、お昼はそこで食べよ」
掲示板を注視していた僕にそう言った佐紀は、そのまま僕の手を握って歩き出した。彼女は相当、僕の扱いに慣れたらしい。僕のように行動力が希薄なタイプの人間は、半ば無理やり動かされるくらいでちょうどいい。
佐紀の手に引かれながらも、周囲を見渡して街の様子を観察する。そこまで栄えているわけでもないけれど、駅前には点々と飲食店などが立ち並び、少し遠くに見える商店街はそこそこの活気を帯びていた。総じて、街としての機能は十分に果たしている。
そして目につくもの全てに対して、僕はどこか違和感を覚えていた。懐かしさ、とでもいうのだろうか。でも、そう何度も目にしたような鮮明さはない。それこそ一度か二度目にしたくらいの、既視感めいたものがあった。
もしかすると、と僕は思う。そしてその答えは、この先にあるのだろう。
「なんか私も少しだけ緊張してきた」
意気揚々と歩みを進める佐紀の背中には、普段、教室で見る彼女の薄暗さの欠片も感じられなかった。どちらの彼女が素なのだろう。そんなつまらないことが頭の端に浮かぶが、すぐに取り消す。
素なんて、考えるだけ無駄だ。暗かろうと笑っていようと、それが本人にとっての本懐でなければ意味がない。そしてそれは、他人には決して推し量れないものだ。
そんな当たり前のことを再認識しているうちに、美術館の入口が迫ってきていた。
簡易的に設置された受付で入場料を払い、そのまま中に入る。入口付近の横壁の半分はガラス張りになっており、白壁の館内に自然光が差し込んで、いっそう混じり気のない景観をつくっていた。
「絵画、こっちだってさ」
「ああ、うん」
佐紀は全くの平静を保っていたけれど、僕の方はいまいち肩の力が抜けていなかった。さっきから、自分でも挙動不審だと分かるほどきょろきょろと周囲を見回している。
「ゆっくり行こ、絵は逃げないし」
「大丈夫だよ、少し気になるだけだから。僕も早く絵が見たい」
「あっ、そう?」
試すように訊く彼女に、僕は聞こえないふりをして歩いた。
気を抜くとすぐに優位に立たれる。思わず立たれてしまうのとはなから明け渡すのでは、気分の問題で明確な違いがある。僕だって、できる限りの些細な抵抗はするつもりだ。とはいえ、彼方さんにはいつも振り回されてばかりなのだけれど。
「今、別のこと考えてたでしょ」
絵画のコーナーに辿り着くのと同時に、佐紀から的確に図星をつかれる。僕は何も返せず、手近な作品から鑑賞を始めた。彼女もそれ以上は言及しても仕方がないと思ったのか、僕の隣で静かに絵画を眺めていた。
なんのコンセプトで集められたのか、確認しないままに鑑賞を始めてしまったのだけれど、全体的に海の絵が多い印象を受けた。
深い青から太陽に照りつけられたオレンジ色の海面まで、まるでグラデーションのように並べられたそれらは、通して鑑賞すると、時間や季節の経過を感じさせた。
そして絵画展が終盤に差しかかるころ、僕は一枚の絵の前で足を止めた。
「どうかした?」
佐紀の控えめな問いかけが聞こえていたけれど、すぐに意識の外に逃がしてしまう。
なんだ、この絵は。
白んだ背景と低い太陽、おそらく描かれているのは早朝の海だった。
視界いっぱいの大きさの絵画は、ひどく遠いところから海を眺めている人物の一人称視点のような、少し湾曲した画角になっていた。ぼやけた海岸のモチーフが視界の端にちらついていて、中心に据えられた海だけが嫌味なほどに鮮やかだった。
この絵を描いた人間は、きっとこの海の、この瞬間だけが好きなのだろう。そうしてその場所を時間ごと切り取って、自分の愛した空間に閉じ込めたいのだ。
息が苦しい感じがした。けれど、それがちょうどいいような、この狭い世界だからこそ取り零さず全てを受け入れられるような、受け入れたいと思うような、とにかく不思議な感覚だった。
この感情は、彼方さんと初めて会ったあのときと、どこか似ている気がした。
「これだ」
気づくと、そんな呟きが漏れていた。
間違いない。
もう欠片程しかない記憶の中の、けれど確かに僕の右手を包んでいた、柔らかな体温を思い出す。
あのとき、母が見ていたのはこの絵だ。