「ああ、うん。おはよう」
「どうしたの? なんか、視点が定まってない感じがするけど」
立ち尽くす僕を案じて、佐紀がそう声をかける。まさか彼女の雰囲気に呑まれた、とは言えないので、焦って他の口実をでっち上げた。
「いや、昨日あんまり眠れなくて」
「よっぽど寝るの、遅かったんだね」
しまった、と思う。彼女のその言葉の裏には、『待ち合わせ時間に目覚めたのに、寝不足?』という心境がうっすら滲み出ていた。
謝罪をしようにもかえって場の空気を悪くしかねないので、それから少しの間僕は黙っていた。佐紀も、そんな僕に合わせてか何も喋らず歩みを進めていた。
「ねえ、気にならない?」
五分ほど歩いただろうか、佐紀は唐突にそう切り出した。
「何が?」
「何がって、今日の行き先だよ」
彼女に言われて、初めて僕は行き先も知らないまま歩いていることに気づいた。そもそも、この歩みの先に目的地があるのかどうかという思考すら、僕は手放していた。
もし仮にこのまま彼女が学校まで歩き続ければ、僕の一足早い夏休みは中断の選択肢を取れたかもしれない。そんな終わった妄想をする。
「……本当になんにも考えてなかったんだ」
僕は初めて佐紀の呆れ声を聞いた。力の抜けた彼女の表情を見て、僕が他人に嫌われるのは何も呪いのせいだけじゃないんだろうな、なんて悲しい気づきを得る。
しかし、相沢佐紀はなぜか僕を見捨てない。
「遥くんは、美術館って行ったことある?」
佐紀の行きたい美術館は隣町にあるらしく、僕たちは一番近い電車に乗った。
最近、電車にばかり乗っている。いつもとは違う車窓からの景色を眺めながらも、心のどこかではこの電車の行き着く先があの海辺なんじゃないかと思ってしまう。そしてそこにはまた、腰までを海に浸した彼方さんが、まるでなんにも不幸なんてないみたいな笑顔で待っている。
「またぼおっとしてる」
鋭い指摘を投げる佐紀は、先程自販機で買ったペットボトルのお茶を控えめに喉を鳴らしながら飲んだ。
さっきの彼女の質問に対する僕の答えは、「多分」だった。いや、経験したことがあるかないかで言えば、間違いなくある。
僕の母は、絵が好きだった。美術大学を卒業し、そこで出会った父と結婚、それから数年で離婚し、女手一つで僕を育てながらも、趣味の絵画はやめなかった。
かつて数百はあった母の作品は、両手で足りるほどの数を残して処分されてしまった。そしてその数点は、僕の部屋の押し入れの奥に眠っている。
そんな母はときたま、まだ小さかった僕を連れて美術館に足を運んでいたらしい。らしい、というのは、僕にその記憶はほとんどないからだ。
どうにか薄らぼんやりと思い出せるのは、自分と手を繋いでいる母が、一枚の大きな絵の前で涙を零している姿、それだけだった。
「ごめん。正直、ちょっとだけ緊張してる」
僕が言うと、佐紀は少しだけ口角を上げた。おそらく、僕はおかしいことを言ったのだろう。でも佐紀はあえてそれを「おかしい」とは言わない。それが優しいことなのだと、彼女は知っているからだ。
「佐紀は、慣れてる?」
彼女の名前を口にするのは、初めてだった。変に気を張った声にならないよう、自然と発音するのに意識が行きすぎて逆につぶやきに近い声量になってしまった。
僕の内心で繰り広げられていたあれこれを察してか、佐紀はまた笑った。そしてそれから、彼女は思ってもみなかった言葉を吐く。
「いや、私も初めてだよ」
「え?」
「そう、初めてだから遥くんと来たかった」
ダメ? そういう付け加えがあったかどうかは知らないけれど、僕には確かに聞こえた。
「……そっか」
完全に気圧された人間の出す声だ。彼女は思っていたよりもずっと、ずるくて賢い女の子らしい。