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第4話

 バスが目当ての停留所に停まったころには、少しだけ雨も弱くなっていた。相変わらずお姉さんは僕のスケッチブックをお腹に抱いているけれど、もう申し訳ないと思うことはない。彼女からしても、バスの代金の代わりみたいなものなのだろう。


「気を付けなよ、嬢ちゃんも坊も」

「ありがと、じゃあね伊藤さん」


 バスはまた短いハザードランプを二回ほど点滅させてから、次の場所へと走り出した。

 停留所のトタン屋根が雨につつかれて鳴いている。今日、あのバスに乗る人はいるんだろうか。考えてもしょうがないことをふと思う。


「じゃ、行こっか」


 すぐ近くに見える住宅地の方を指さして、お姉さんが言った。彼女の前髪はまだ僅かに濡れていて、いくつかの黒い線が額に張りついていた。


 お姉さんの住んでいるアパートは、全部で十部屋以上はありそうな、そこそこ部屋数の多いところだった。けれど一部屋ごとの扉の間隔はそれなりにあって、一フロアには三部屋から四部屋ほどしかない。お姉さんの部屋は三階の真ん中だった。

 彼女が言うには、現在このフロアに他の入居者はいないらしい。ちょっと寂しいよね、とお姉さんは笑った。それもなんだか嘘に聞こえて、僕は適当な相槌を返した。

 緑色の塗装がなされた鉄製の扉には、おそらく鍵がかかっていなかった。その理由は、もうなんとなく分かった。

 先に玄関に入ったお姉さんは、靴を脱ぎながら僕のことを手招く。


「……お邪魔します」

「うん、いい子だなあ」


 お姉さんは多分純粋に思ったことを口にしているだけなんだろうけど、僕にはどこか馬鹿にしているように聞こえた。


「まあ狭いけど、好きに座ってよ」


 左右を本棚に挟まれた六畳間くらいのスペースが、お姉さんの生活空間らしかった。

 手狭な空間は綺麗に整えられていた。いや、むしろ整えられすぎていた。多分、身辺整理は終えられているのだろうと思った。それくらい、生きている人間の気配がまるでなかった。

 彼女が窓際のベッドに座ったので、僕は必然的に玄関側の、小さなキッチンを背にした場所に腰を下ろす。

 お姉さんに渡された蛙のイラストが描かれたハンドタオルは、彼女と同じ洗剤の匂いがした。僅かに眉の下がった蛙は、どこか困り顔に見える。


「またこの家に帰ってくるとはね」


 まるで他人事みたいに呟きながら、お姉さんは二人分のコップに麦茶を注いだ。トクトク、音を立てながら透明な円柱が焦げ茶色に染まっていく。冷たくて気持ちよさそうだな、と思った。自分だって、雨で十分冷えているのに。


「あの」

「何?」

「なんで、さっき会ったばかりの僕を簡単に家に上げるんですか? 他の人に見られたら、お姉さんも得しないですよ」

「脅しとは感心しちゃうな。それと私はお姉さんじゃなくて、ちゃんと井辺彼方って名前があるんだからね」


 落ち着かない僕をよそに、彼女はあくまでのんびりとしている。目の前に出された麦茶は、よく見るとひどく色が濃かった。


「別に脅してるわけじゃ……。僕はただ、井辺さんの目的が知りたいんです」


 なみなみついだ麦茶を喉に流し込んでから、彼女はちょっとだけ眉を曇らせた。


「名前で呼んで」


 どうでもいいところで立ち止まらず、早く質問に答えてほしい僕は、少し気恥しさを感じながらも彼女の要求を呑むことにした。


「彼方さんは、何のために僕をここに連れてきたんですか」


 僕が訂正したのを見て、彼方さんは満足そうに口元を緩ませた。彼女はよく顔の筋肉が動く。きっと普段から色んなことで笑ったり困ったりしているのだろう。そんなことを、ふと考えてしまった。考えても、どうしようもないことを。

 そして彼女は人差し指を自分の右目の下に添えて、今度はやけに真剣な声で続けた。


「私は、君の秘密が知りたいの」


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