今日も今日とて、平穏な武器屋の一日が始まる。
毎日の開店前ルーティーンとして、店の前を掃除しようとドアを開けると同時に、それが俺の目についた。
風邪っぴきの鼻水に似た、薄黄緑の半透明ゲル状モンスター。
スライムと呼ばれるそいつは、動物の死骸を好んで食べ、なおかつ排泄物も食べる。
人を襲ったりはしないから、基本的に害はない。
けれどどうしようもない嫌悪感が、本能的に湧いてくる。
石畳みに残された野生動物の落し物に覆い被さり、ぷるぷる身を震わせながら食しているスライムに背を向け、俺は店内へと急いだ。
スライムはいわゆる、ザコモンスターだ。
中心に透けて見える核を壊せば、液体状になって土に還る。
だが面倒な事に、その核が硬い。
しかもきちんと破壊しないと、再生してしまう仕様だ。
幸いこいつは。まだ片手鍋一杯分ほどの大きさの幼体なので、それほど手間はかからないだろう。
成体ともなると、槍で突かなければ核まで届かないほど、厄介な大きさになってしまうのだから。
俺は地金リサイクル用の樽から適当な剣を見繕い、踵を返した。
「あー、きったねぇなぁ……」
改めて観察してみれば、いや増す不快感。
動物の落し物が細かくすり潰され、半透明の体内を巡っているのが見える。
放っておきたいけれど、店の真ん前にこんな汚物がいたら、商売あがったりだ。
街の景観を損ねると、商工会のジジイ共にも叱られてしまう。
めちゃくちゃ気乗りしないが、片付けるしかない。
やれやれと剣を抜いてから、ようやく気付いた。
これはつい先日、勇者から買い取ったばかりの、例の宝剣だ。
『やーいやーい、チェリーボーイ!』
俺を嘲笑う勇者一行の姿が目裏に浮かび、こめかみに青筋が走る。
「チェリーボーイで……何が悪いっ!」
八つ当たりの一撃を叩き込まれたスライムは、核を割られ、みるみるうちに萎んでいった。
後に残るのは小さな水たまりと、場末の酒場の便所を思わせる不快な芳香だけ。
口の中に滲んだ気持ちの悪い唾を吐き捨て、剣を鞘に収めようとした時だった。
『チェリーボーイは悪くない。
悪いのはこの世界なのだ……!』
どこからか、恨みがましい声が聞こえてきた。
「……誰だ?」
辺りを見回しても、早朝の街中には人はおろか、モンスターの一匹もいない。
おかしい。
幻聴と呼ぶには、あまりにもしっかりと聞こえた。
そう、まるで頭の中に、直接響くような。
『その通り。私の声は、貴様にしか聞こえていない』
心の声に答えるような言葉を掛けられ、肌がゾクリと粟立った。
この世界に死霊だ精霊だのという、不可思議な者が存在する事は知っている。
しかし今まで生きてきた中で、そういった類とは全く縁がなかった。
だから余計に気持ちが悪い。
怖い想像を振り払うために、俺はわざと大声を出した。
「だから誰なんだよ!
おかしな魔法使って、こそこそ以心伝心してねぇで、出てこい!」
『死霊でも魔法でもない、呪いだ。
そのせいで私は、ここから出られないのだ』
「ここって、どこだよ?」
『まだ分からないのか。没個性なばかりか、勘まで鈍いのだな、貴様は。
ほら、ここだ。
さっきから貴様が手にしている、剣の中だ』
剣の中とは、これまた珍妙な。
恐る恐る覗き込んだ剣身に映るのは、訝しげな表情を浮かべる俺の顔だけ。
美男美女は三日で飽きると言われているが、俺は一生相手を飽きさせない自信がある。
なぜならば、どこにでもいるような黒髪黒眼で、これといった特徴も黒子すらもなく、会った数分後には忘れてしまうような、印象の薄い顔だからだ。
こんな風に意図せず不意打ちで自分の没個性な顔と向き合うと、ほんのり暗い気持ちになる。
(何だよ……何もいねぇじゃんか。
やっぱり幻聴か? 疲れてんのかな、俺)
目の下のクマを確認せんと剣身を近付けた途端、見慣れた顔が、いきなりぐにゃりと歪んだ。
水面を揺らす波紋のようなノイズが立ち、それが消えた後、なんと剣の中に綺麗な男の顔が現れた。
長い銀髪の間から生えた二本の立派な角は、魔族の証だ。
一般的に「角の大きさと魔力の強さは比例する」と言われているから、こいつはなかなか強力な魔族なのだろう。
鏡のように向き合っているくせに、俺と相反する個性的で整った顔立ちをしているのが、たまらなく腹立たしい。
しばらく見つめ合った後、剣の中の男はニヤリと口元を歪めた。
『私の名はゼクロス。
世界を統べる、魔王の中の魔王だ』
──誇大表現もいいところだ。
それに初対面の相手にそんな自己紹介なんて、厚顔無恥も甚だしい。
昨日の勇者といい、こいつといい、頭が沸いているのだろうか。
頭が沸いているからこその美男仕様なのだろうか。
だったらいっそのこと、俺の頭も沸いてくれないだろうか。
恨みがましく剣身を睨み付けてから、俺はスライムが食べ残した野生動物の落し物の上に、そっとそれをかざしてやった。
「何たわけた事ぬかしてやがる。
どう見たって、魔王の風格じゃねぇだろ。ちょっと顔がいいだけの、上級魔族だろ。
本当の事言わねぇと、お前の住処をウンコまみれにすんぞ」
『わわわわわっ! 待て待て!
確かに、魔王は言い過ぎた! だが私は、そこそこ魔力の高い魔族で、先代の魔王の弟の娘の姪っ子の』
「はい、そういう長い説明、めんどい」
『ごめんなさいごめんなさい!
一介の淫魔ですっ!』
だったら初めから素直に申告すればいいものを、この無駄美青年め。
改めて柄を握り直し、俺は再び冷ややかな視線を投げかけてやる。
「で? 何なんだよ?
いちいち俺に話し掛けてくる必要があったのか?」
『ありもありの、大ありだ。
貴様は我が魔剣に選ばれたのだから、光栄に思うがいい』
種族で差別するつもりは毛頭ないけれど、どうも魔族という奴は人間を見下したがって、いけ好かない。
昔ながらの悪しき風潮だ。
上から目線の偉そうな物言いに大いに苛立った俺は、やっぱりウンコまみれの刑を執行してやろうと、剣を下ろした。
『待て待て待てっ!
モテモテになりたくはないか、少年よ⁉︎』
魅惑的な色をたたえた問いかけに、溶けたスライムの痕跡の上で開こうとしていた指が、ギクリと止まった。