冷たい空気が頬を刺す朝。
さみぃ、とボヤきながら、マフラーを引き寄せ、歩道を進んでいた。
隣を歩く幼馴染の
「ねえ、
琴音が立ち止まり、指を空に向ける。
大きなコートの袖から覗く手袋は、彼女の手より少し大きいようで、何となく幼い印象を与える。
ふわふわの白いマフラーが首元を包み、その隙間からほのかに赤く染まった頬が見えた。
目を輝かせながら見上げる彼女の瞳は、どこか夢見るように遠くを見つめている。
「……雪、か」
俺も足を止めてその白い欠片を見つめた。それはゆっくりと地面に落ちて、街を覆い始める。
「初雪だよね、これ。……やっぱり特別って気がする。雪ってさ」
琴音はふわりと笑う。
その声は耳元で静かに弾ける雪のように心地よくて、俺の胸の奥に響いた。
琴音の横顔を見ながら、俺は子供の頃の記憶が重なった。
あの時は、土砂降りの雨の中で途方に暮れていた俺に、琴音は自分の傘を差し出してくれたのだ。
「悠人、びしょ濡れになったら風邪引いちゃうよ」
あの時の琴音の笑顔は、今でも思い出せる。無邪気で温かくて。
けれど、今俺が抱えている感情は、あの頃は違っていた。
特別な存在だ――そんな言葉が胸の中で何度も渦巻いては、声にならず消えていく。
「悠人、なにか言った?」
「なんでもない」
琴音が首を傾げて振り返ったが、俺は目をそらして歩き出した。
白く染まり始めた街並みの中を、彼女の足音がすぐ隣で響いていた。
△ ▼ △ ▼ △ ▼
冬の夜空が闇に染まり始め、街灯りがぽつぽつと灯る頃。
俺と琴音は学校からの帰り道、商店街を歩いていた。
商店街の通りは冬ならではのイルミネーションで彩られ、まるで星空が地上に降りてきたようにキラキラと輝いている。
「わあ、見て!」
琴音は足を止めて、小さな声で感嘆の息を漏らした。
街路樹の枝には無数のライトが灯り、まるで木々が夜空に輝く星をまとったようだ。
その光を受けた琴音の顔も、どこか嬉しそうに輝いている。
頬にはほんのりとした赤みが差し、冬の冷たさが彼女の表情をさらに鮮やかにしていた。
「そんなにはしゃぐほどでもないだろ……」
「だって、こんなに綺麗なんだよ? 見てるだけ気持ちがほっこりするじゃん」
琴音は微笑みながら、ライトアップされたツリーを指さした。
俺は彼女の横顔を眺めながら、胸のうちに広がる穏やかな感情を覚えていた。
琴音がふと、歩きながら呟いた。
「ねえ、悠人。このままずっと、こうして一緒にいられたらいいなって、思うことない?」
ふいに琴音がつぶやいたその声は、イルミネーションの光よりも静かに胸の奥に響いた。
俺の足が、一瞬止まる。
そんなの、俺だって何度も思ったことがある。でもそれを言葉にするのは怖かった。
俺たちは幼馴染で、一番の友だち――その関係に甘えている自分がいる。
けれど、それ以上を望む自分も確かにいるんだ。
「……どーゆー意味だよ、それ」
なんかぶっきらぼうな言葉が口から出てしまった。
そういうことをいいたいんじゃなくて……。なんで俺は……。
「うーん、深い意味はないんだけどね。ただ、悠人といるとなんだか安心するんだ。昔からずっと……」
あっけらかんと笑いながら言う琴音。
俺は視線を前に戻しながら、ドキドキしていることを自覚していた。
「ま、俺は頼りになるだろうしな」
でも、それを琴音に悟られたくなくて、少し歩みを早くしながら言った。
「そーゆーことじゃないよ、もう!」
琴音が頬を膨らませて抗議するけど、その顔には笑顔が浮かんでいた。
俺たちが歩く道の先には、きらめく光が絶え間なく続いている。
その光の中で、隣の彼女の笑顔だけは、いつまでも変わらずにいてほしいと願っていた。
△ ▼ △ ▼ △ ▼
部屋に戻るなり、俺はベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめる視界に、さっきの琴音の笑顔がじわりと浮かぶ。
まるでイルミネーションの残像が心の中に焼き付いているみたいに。
冬の夜を照らしていたあのイルミネーション。
その光の中で、琴音は「ずっと一緒にいられたら」なんて呟いた。
無邪気な言葉のはずなのに、どうしてこんなに胸の奥に刺さるんだろう。
まるでトゲが深く食い込んで、動くたびにチクリと痛むような感覚だ。
なに考えてるんだろうな、と思いながら、枕に顔を埋めた。
琴音は幼馴染で一番の友だちで。でも、俺の中では特別な存在なんだ。
それは偽らざる思いだ。でも、それ以上の関係に踏み込むのが怖かった。
今の関係を自分からぶっ壊すなんて……できない。
翌朝、教室に着くと、すぐに友人たちに捕まった。
「おい悠人、昨日の帰り、琴音ちゃんと一緒だったろ? イルミネーションデートだって?」
「は? 馬鹿言うなよ。ただの帰り道だっつーの」
「へー、ただの帰り道ねぇ。じゃあ、あのキラキラしたイルミネーションの下でいい感じだったって話も『ただの』か?」
「だから違うって言ってるだろ!」
声が少し上擦ったのが、自分でもわかって余計に腹が立った。
「へーへー、そーでございましたね。お前と琴音ちゃんは幼馴染で仲いいの知ってたよ」
「ったく。わかっててからかうのやめろよな」
はぁ、とため息を付く俺。
昼休み、琴音が隣のクラスにプリントを配りながら、「ちゃんと出しといてね」と笑っているのが見えた。
あいつの笑顔は本当に変わらない。誰にでも優しくて、明るくて。
でも――違うんだ。
その笑顔が他の誰かにも向けられているのが、なんでこんなに苦しいんだろう。
――違うんだよな。
俺は太陽すらも覆い隠しそうなほどの分厚い雲を見ながら、心の中で呟いた。
あいつが誰にでも優しいのは理解している。
でも。それでも。
俺に見せる笑顔だけは、特別なものであってほしいと思う。
――やっぱり、琴音は俺にとっては特別な存在なんだ。
俺はそれを自覚しているし、はっきりさせたいと思っていた。
俺にとって琴音は特別な存在だ。
そう気づいているのに、その特別さを言葉にする勇気がどうしても持てない。
苛立ちを抱えたまま、曇り空を見上げた。
まるでこの空みたいに、自分の心も曇っているみたいだ――晴れる日なんて、本当に来るんだろうか。
△ ▼ △ ▼ △ ▼
夜空から舞い降りる雪は、街灯の淡い光を浴びて静かに煌めいていた。
薄く積もった雪の上を歩くたび、俺と琴音の足元から、かすかな音が響く。
冷たくも優しいその音が、冬の静けさをいっそう深くするようだった。
「こんなに雪が積もるなんて珍しいよね」
琴音が足を止めて、空を見上げている。
その横顔は、冷たい冬の空気の中でも暖かさを感じさせるような穏やかな笑顔を浮かべていた。
「こんなに積もるなんて、本当に特別だよね」
琴音の何気ない一言が、俺の胸の奥に深く響く。
その声は雪と同じくらい透明で、でもどこか温かくて、俺の中で静かに溶けていくようだった。
雪の白さの中で、琴音の姿が一層鮮明に見える。
――掃除の時間に誰よりも率先してクラスメイトを助けていた姿。
――友達が沈んでいるときに何気なく声を掛ける姿。
いつだって自然に周りを明るくする彼女の優しさ。
それは、あの時の雨の日も、今も変わらない。
やっぱり。俺は琴音を。この幼馴染を。
「……琴音。俺はお前にずっと言いたいことがあるんだ」
俺が女の子に対して『お前』というのは、感情的になってしまっているときだ。
それは怒りの感情から来ることのほうが多いが、今は違う。
琴音にしっかり見てもらいたいからだ。
「どうしたの、悠人?」
足を止めた俺を優しく見つめる琴音。
俺は深く息を吸い、声が震えないように、拳を握りしめる。
この一歩を踏み出せば、今までの関係は戻らないかもしれない。
でも。俺はもう「幼馴染で一番の友だち」という括りで、琴音と一緒にいられない。
「琴音……俺、お前に言いたいことがある」
「うん、なに?」
琴音の声は静かで優しくて、心の奥をそっと撫でるみたいだった。
街灯の下で舞う雪が、俺たちの間にふわりと降り積もる。
言葉を紡ごうとするたびに、心臓が高鳴り、息が詰まりそうになる。
それでも、もう後には引けない。
言葉を紡ぐ瞬間、空から降る雪が俺たちの間に静かに舞い降りる。
音がない白い世界の中、俺の声が小さく響く。
「琴音のことが……好きだ」
言い終えた瞬間、心臓の鼓動が耳の奥まで響く。
琴音の瞳が驚きに見開かれた。降り続ける雪の中で、彼女の表情が白く透き通るように浮かび上がる。
はらはらと降る雪が、街灯の光に溶けて消えるようだった。
琴音の返事を待つ俺の心臓は、彼女に聞こえるんじゃないかってぐらいに音を立てていた。
「………悠人」
「こ……琴音……?」
「……私も、悠人のことが好き」
琴音はそっと俺に近づき、ふわりと抱きついてきた。
耳元で囁かれたその言葉が、冷たい夜の空気の中で、炎のように温かく胸に染みる。
凍えるようだった心が、柔らかい雪に包まれるように溶けていく。
「なんだ……琴音もか」
「そうだよ。少し悠人の様子がおかしいなって思ってたけど……。
……ま、私も同じだったし、おあいこってことで、ネ」
「琴音……」
俺が琴音に呼びかけたと同時に、琴音の顔が視野いっぱいに広がった。
次に彼女の顔を見ると、少しだけ頬が赤くなっていた。
「恋人同士だし、いいかなってさ」
「お……おう……」
俺と琴音はそのまま並んで歩き出した。
街の灯りが雪に反射し、静かな夜道を淡く彩っている。
「ねえ、悠人。これから、私たち、どうなっていくのかな?」
「そりゃ……恋人同士でやること全部……みたいなことになるんじゃないか」
俺の言葉に、琴音はふふふと笑いながら、そうなるのかなって答えた。
雪が静かに積もる夜の歩道を、俺と琴音は肩を寄せ合いながら歩いていく。
足元で雪がかすかに音を立て、そのたびに心が温かくなる。
この夜、この雪、この瞬間――全部が俺たちにとって特別だ。
いつかこの雪が溶けて春が来ても、この日のことだけはきっと一生忘れない。
俺たちの新しい始まりとして、心に刻みながら。