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第五話 綾音の不安


 綾音が初めて清歌に声をかけてから十日が経過した。

 清歌が自分に好意を抱いているのは分かっていた。

 それは好意というよりも憧憬に近い感情なのではないか。そんな思いが綾音の中にはずっとあった。

 清歌が中学生になってから、つまり綾音がこの家に堕天してから彼はずっとこの家を訪れていた。

 この家の下の道を通りながら、窓から外を眺めている綾音にずっと視線を送っていた。

 普通だったらホラーだ。

 何年も一人の女性の家の前を通り、そこから住人を見上げているのだ。

 しかし綾音にはそんな感情は一切湧かなかった。

 彼の憧憬が、徐々に恋愛感情に変化していくのを綾音はただ黙ってみているしかなかった。

 本当は話しかけたかった。

 ずっと彼を”見守っていた”立場からすれば元神様とはいえ、同じ人間として受肉した綾音からすればチャンスだった。

 許されざる恋が実るかも。そう思っていた綾音だが、自分が堕天した経緯が経緯だけに彼との接触を拒んでいたのだ。


「我慢できなかった私が悪いのよね」


 綾音はいつも通り窓の外を眺めながら呟いた。

 十日前のあの日、綾音が調子を崩したのは鎖の呪いだろう。

 きっと他の神たちは、綾音が清歌と接触するのを許さない。


「もう私は彼と接触しちゃだめね。このままここで一人……」


 綾音は呟きながら、視界が潤むのを感じた。

 初めて涙なんて流した。

 綾音はそんな感想を抱きながら、とめどなく溢れる涙を拭い続ける。

 神様に泣くなんて機能は備わっていない。

 これは人間の身になっての発見だった。


 人間はこんなにも孤独に弱いのかと驚いた。

 綾音にとってこの三年間は発見の連続だ。

 最初は窓から外を眺めているだけでも楽しかった。

 いろんな人たちを眺めて、いろんな景色を見て、神様だったころには感じられなかった等身大の空神町の景観。

 だけど時間が経つにつれて、すべては色褪せてしまった。

 もう景色を眺めてるだけでは物足りなくなったのだ。

 誰かと触れ合いたいという気持ちが膨れ上がり、しかし誰になんて声をかけていいか分からない。

 綾音が神だった時から認知しているのは清歌だけだ。

 そんな時、清歌がいつものように通学中に綾音を見上げていたのが目に入った。

 魔が差したとはこのことだろう。

 綾音は欲張った。

 清歌とのつながりを求めてしまった。

 それが引き金となって、鎖を通して綾音に神罰が下った。


「どうして自分が堕天させられたのか考えろってことね」


 綾音は深い溜め息とともに神罰の理由を思い出す。

 仕方がないという思いと、やるせない感情が渦巻いた。


「綾音さん!」


 綾音が物思いにふけっている時、下のほうから清歌の声が聞こえた。

 ハッとして視線を下に向けると、そこにはいつも通りに清歌がこちらを見上げていた。

 声はかけられない。

 もしかすると次は神罰が彼に及ぶかもしれない。

 そんなことになれば、一体なんのために彼をかばって堕天したかわからない。


「あれからずっと祈ってるから大丈夫! きっといつか自由になれるはずだから!」


 清歌は綾音が話す気がないのを察してか、それだけを言い残して去っていく。

 いつも帰る方向とは違う。

 清歌の家に続く道ではなく、通称”裏山”に続く道だ。


 祈っているって一体何にだろう?

 綾音は一瞬なんのことだか分からなくなったが、やや遅れて彼の発言の意味がわかり始めた。

 なんですぐに気が付かなかったんだろう。

 なんですぐに気づいて、そんなことはしてはダメと言えなかったんだろう。

 後悔の念が押し寄せる。

 綾音は一度目を閉じて深呼吸をする。

 どうにかして清歌に伝えなくてはならない。

 じゃないと、いつ神たちの怒りの矛先が清歌に向くかわかったものではない。


 しかし一体どうしようか。

 彼に接触せずに伝える方法が思いつかない。

 電話という手もあるが、結局神たちには筒抜けだ。

 置き手紙も同じこと。

 神からしてみれば、私たちの行動などすべてが筒抜けなのだ。

 だからこそ、空神町のシステムは機能している。

 つい数年前まで、自分も管理側だったからよく分かる。

 この町の土着の神は、この町に住む住民たちのすべての行動を把握している。

 行動どころか好みや思想、天命までも……。


「はぁ……」


 綾音は深い溜め息をついて空を見上げた。

 足の鎖を触り憂鬱な気持ちを空に打ち上げる。

 この町のシステムは本当に厄介だ。

 これでは彼と話すことすらままならない。


「あ、あの……」


 再び道から声がした。

 あまり聞き覚えのない声。

 女の子の声だ。

 綾音が不思議に思って声のするほうに視線を向けると、そこにはこのあいだ清歌と一緒に部屋に上げた少女が立っていた。

 一体彼女が私になんの用だろう?

 綾音が不思議に思い口を開きかけた時、少女は言葉を続けた。


「貴女に話したいことがあります!」


 霧子の声が夕暮れの住宅街に響く。

 綾音は慌てて口に人さし指を添えて手招きする。

 霧子のただならぬ気配に、綾音は覚悟を決めた。







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