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第35話

月子が、着替えを終え居間へ続くふすまを開けたとたん、歓声があがった。


何事かと部屋を見てみると、お咲が、唄い終え、立ちすくんでいる。


「おい!岩崎!大したもんじゃないか!」


「そうだろ?中村!しかも、私の演奏を聞いて、時間が経っているにもかかわらずだ。まあ、最初の一小節は、半音ずれていた所もあったが、よしとしよう」


岩崎と中村は、興奮しきっている。


しかし、その脇では……。


「うーん。何が凄いんだい?ビービー言ってるだけに、俺には聞こえたんだが。まあ、何かしらの唄、って、ことは分かった」


二代目が、ぼやいている。


「ちょっと!二代目!あんたなぁ!」


「中村。二代目は、こうゆう男なんだ。まるっきり、芸術、音楽というものが、わかっていない」


いきり立つ中村、それを制する岩崎のことなどおかまいなしで、二代目は、生欠伸をかみしめつつ、


「あー、酒が回って眠くなっちまったなぁ。もう一本、いっとくか」


などと言いつつ、徳利を手に取った。


「二代目!飲んでる場合か!ひょっとしたら、お咲は天才かもしれんのだぞ!」


中村が、噛みついた。


「でもねぇ、知ってる曲だったのかもしれねぇでしょう?中村の、にいさん」


酒が、ねえなぁと、徳利を覗きこみながら、二代目は答えた。


その適当加減が、中村に火をつける。


「岩崎!!演奏しろっ!バイオリンがあるっ!お咲の知らない曲を演奏するんだ!」


二代目の鼻をあかしてやろうと、中村は岩崎へ言った。


どうやら、お咲の実力を認めさせたいらしい。


そこは、岩崎も同じ思いのようで、よし、と、妙に前向きだった。


「月子様……」


こちらへと、部屋の隅に座っていた吉田が、話についていけない月子へ手招きする。


「……私は、これにて。少しばかり、にぎやかですが、月子様は、はいはいと、返事をしておけば大丈夫ですから」


「は、はい……」


月子は、とまどいながらも、芳子の着物をまとめた包みを吉田に手渡すと、そっと、腰を下ろした。


中村が、バイオリンを岩崎へ手渡している。


うん、と、大きく岩崎は頷き、演奏する気になっているが、ピタリと動きが止まった。


「中村。なぜ、私がバイオリンを演奏しなければならない?私はそもそも、チェロが専門なのだ。で、どうして、バイオリンがある?と、いうより、中村が、なぜいるのか、だ」


あーー、と、二代目は、酔いがまわってか、気だるそうに横になり、


「でたね、京さんの、あーでもない、こーでもない。中村のにいさんが、お弾きなさいよ。その方が、面倒臭くないでしょ」


「おお、二代目よ!確かにそうなのだ。が、おれも、酒が回ってる。指が動かんのだなぁ。それに、ほれ、岩崎に、弾かせるのが花をもたせるってやつじゃねぇかい?」


言って、中村は、顎をしゃくって、二代目へ合図する。


何のことやらと、示された後ろ側を見てみると、月子の姿があった。


「あーー、月子ちゃん、来てたの!そんじゃ、京さん、頼むわ!」


「何が、頼むだ!それに、中村!お前、月子を、ぞんざいに扱いしすぎるぞ!なんだ、あの態度は!」


岩崎は、持っている、バイオリンの弓を振り回し、男二人を睨み付けた。


「……言ったよ、月子だと」


「へえ、岩崎、ほの字じゃないか?!」


睨み付けられた二人は、ものともせず、へらへら笑った。


「なっ!?」


岩崎は、言葉に詰まる。


部屋の隅に座っている月子も、二代目と中村の言い様に、つと、頬を染めた。


「まっ、細かいことは抜きにして、とにかく!お咲の才能を見極めるぞ!岩崎!」


中村の音頭に、岩崎も、はっとすると、頷いた。


「でだな、G線上のアリアは、意外と難易度が低い曲だ。ひょっとしたら、まぐれ当たりの線もある……」


「うん?中村、つまりは、もっと難易度の高い曲をという事か?しかし、難易度というのは、演奏する側の問題であって、聞いて真似する部分に関しては、どうなのだろうか?」


岩崎の問いに、中村も、うーんと考えこんだ。


「なんなんだい。適当に小技の効いたのやりゃーいいでしょ。で、そこんとこが、唄えるかどうか、ってのを見ればいいんじゃないの?!って、言うより……」


ごろ寝している二代目は、ちらりと月子へ目をやると、


「お咲もだけど、まあ!素敵って、言わせる方が、いいんじゃないのかねぇ?」


中村へ、意味深に目配せした。


「おお!それも、ありだな!ということで、岩崎!」


「はっ?!」


言われていることが、さっぱりわからんと、岩崎は、ポカンとしつつ、それでも、行き掛かり上、演奏の体勢をとる。


「……そうだなぁ、では、ヨハネス・ブラームス作曲、ハンガリー舞曲第五番……を」


言うと、岩崎は、キッと顔を引き締め背筋を伸ばし、バイオリンを左顎で挟み、弓を弦に当てた。


バイオリンの音が駆けている。


岩崎が演奏している曲は、男爵邸で披露されたものとは異なり、爽快で、晴れやかなものだった。


その、流れる曲の速さときたら、全速力で走っているかの様で、演奏している岩崎の指は器用を越えた動きをしていた。


左手の指先が、弦の上を忙しく動く。


もつれてしまうのではないかと思う程、小刻みに岩崎の指は動いていた。


そのたび、バイオリンから、小気味良い高音が流れ出る。


だるそうに転がっていた二代目も、おっと声をあがて、起き上がり、お咲は、これまた目を丸くして演奏に聞き入っていたが、わあっと、嬉しそうに叫んで、曲にあわせながら跳び跳ね始めた。


月子も、初めて耳にする軽快な音楽に、つい、笑みを浮かべていた。


調しらべは、どんどん速くなり、岩崎も、体をくゆらせながら、勢い良く弓を引く。


月子の知らない世界が、小さな居間で繰り広げられていた。


岩崎が大きく、弓を引き切った。


賑やかに流れていた音が止まり、瞬間、静けさが戻ってきたが、すぐに、二代目と中村のヤジのような歓声と、興奮しきったお咲の騒ぎ声が響き渡る。


「ちゃん、ちゃん、ちゃんちゃん」


お咲の独唱が始まった。


よほど気に入ったのか、お咲は、嬉しそうに、一生懸命、岩崎が演奏した曲を唄い始めていた。


無理もないと、月子は思う。


月子ですら、気分が高揚し、演奏を終えて、律儀に一礼する岩崎の姿が、勇ましく、そして、誇らしく見えるのだから。


まだ、幼いお咲ならば、当然、弾けきってしまうだろう。


そんなことを思いつつ、月子は、岩崎の姿に見入ってしまっている自分に気がついた。


どうすれば良いのかわからなくなった月子は、さっと目を伏せて、岩崎からの視線を避ける。


「中村のにいさん、こりゃまた、色々、大変だ!」


「だろう?二代目!まあ、この主旋律は、聞き取り安いかもしれないが、お咲は、岩崎の編曲部分と、間までちゃんと聞き取ってるんだよ。って、わかんのかねぇ?あんたに……」


完璧に岩崎の演奏を唄いあげている、お咲のことを中村は、褒め称えるが、二代目には、何が凄いのか、わかるまいと、少々複雑な顔をした。


「おやおや、見くびってもらっちゃ困る。俺にも、ちゃんと分かりますよ。なんとわなし、むず痒い雰囲気を、作ってしまったって事もねぇ」


へへへと、薄ら笑いながら、二代目は、岩崎と月子をチラチラ見た。


お咲の唄声を、岩崎も聞いてはいるが、視線は、月子へ定まっていた。


やりきった、と、脱力感を漂わせながら、しっかり、月子を見ていたのだ。


「あぁ?!お咲はどうなる?!って、言うか、本当だわ。こりゃあ、目の毒だ!」


「なあ?お咲の凄さは、俺もわかったけど、二人の凄さも、なんとわなし、って、やつじゃないですかい?中村のにいさん?!」


だわなぁ。こりゃまた、と、中村も二代目の口車に乗っかっている。


一方、岩崎は、やはり、なんのことやらと、二代目と中村を責めるように睨み付けた。


「慣れないバイオリンを、即興で弾いたのだぞ!もっと、ちゃんと、お咲のことを考えないかっ!」


「とはいうけど、二人のことこそ、ちゃんと考えないと、お咲の行く末もかかって来るって話じゃないかい?京さんよ?」


二代目は、不機嫌な岩崎へ、飄々と言った。


その後ろで、月子は居心地悪く、もぞもぞしながら、座っている。


お咲はというと、ご機嫌な様子でまだ唄っていた。


「まあまあ、なんだ。とにもかくにも、凄いこと、って訳だろ?堅物の岩崎が、若い嫁さん貰うわ、天才少女が現れるわ!」


ははは、と、中村は、大笑いし、二代目も、まっ、おいおいってことかねぇ、などと良くわからない事を言いながら、酒もつまみもねぇなあ、と、拗ねている。


「あっ、な、何か、用意いたします!」


月子が、立ち上がろうとするのを、岩崎が止めた。


「そもそも、なんで、人の家で、お前たちは、酒盛りをやっている!中村!説明してみろ!」


岩崎からすれば、西条家より戻ったら、余計な面子が勝手に酒盛りをしていた。という話で、納得がいかないらしい。


「あっ、お咲ちゃんが……」


お咲は、唄い終わり、どうすれば言いのかと、また、立ちすくんでいる。


目ざとく見つけた、月子が、お咲へ拍手しながら、


「皆様も!お願いします!お咲ちゃんが、可愛そうです!」


言い合っている男達へ向かって、意見する。


「ありゃ、嫁さんにしかられたぞ、岩崎!」


「いやぁ、怒った月子ちゃんも、可愛いねぇ」


中村も二代目も、軽い態度は代わらずで、岩崎は、そんな二人に堪忍ならんと、顔を歪めきっていた。

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