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第34話

「そんなの、旦那様と月子様だよ?しっとうひつじの吉田さんが、言ったよ。しゅうげんが、おわったら、月子様じゃなくなるんだ。奥様になるんだ」


月子の手を引くお咲が、真顔で言った。


「……お咲、それは、なんだ?羊は、いないだろ?」


岩崎も、真顔で言う。


「あ、あの、筆頭執事、と、言うことでは……」


月子が、恐る恐る補足する。


「ああ、それは、なんとなくわかるがね……しかし、羊の話かもしれんから、確かめておくべきだろう?」


「……あ、あの、多分……羊の話は出てこないかと……」


月子は、余計なことかもしれないと思いつつ、同時に、もしかして、岩崎にからかわれているのではとも思うが、そうか?と、首をかしげている岩崎を見ては、混乱するばかりだった。


「早く着替えてください。月子様」


内心、オロオロしている月子を、お咲が急かす。


言われてみれば、確かに。


芳子の着物を借りているのだ。


着心地の良さから、借り物であると、月子は、うっかり、忘れそうになっていた。


「あぁ、芳子様に返さなくては……」


そういえば、吉田も、着替えろと言っていた。きっと、着物を持ち帰るという意味なのだろう。


「……その、芳子様、も、おかしくないか?姉になる訳だし、義姉上あねうえは、うーん、男口調だなぁ。ますます、違う」


「何、ごちゃごちゃ言ってる!と、言うより、岩崎、お前、家に帰っても、岩崎なのか?!教鞭を取っている時と同じじゃないか?!口やかましくてたまらん!」


中村が、吉田にもたれ掛かりながら、言う。そこへ、二代目も障子を開けて顔を覗かせ、


「結局、二人して、いちゃついてるだけでしょうが。何て呼び合う?なんてこたぁー、他所でやっておくれよ。ってーゆーか、お咲の言うように、旦那様と月子ちゃんで、いいんじゃないのかい?」


にやつきながら、岩崎へ意見した

が……。


「お言葉ですが、京介様が、月子ちゃん、と呼ばれるのは、困ります」


吉田が口をはさんで来る。


男爵家の人間だけに、ちゃん付は、まずいらしい。


「ああ、なんだか、面倒な話だな……」


あれこれ言われて、岩崎は、眉をしかめた。


「ちょっと待った!京さん!」


「おう!岩崎!その言いぐさは、なんだ?!」


二代目と中村が、鬼の形相で、岩崎へ怒鳴る。


「……お咲は、お咲でいいの?」


そこへ、男達の堂々巡りに、疑問を持ったのか、お咲まで、不安げに言い出した。


酒の勢いと、岩崎の妙なこだわりとが相まって、言い争いとも違うような、討論とも違うような、おかしな空気が流れ始めた。


結局のところ、これには自分が関係しているのだと、月子は思うと、どうしようもなくなって、うつむいてしまう。


「……月子様……」


お咲が、顔を曇らせ、そんな月子を見ている。


「あーあー、見てられない。二代目、これ、どうする?」


酔いが覚めるわと、ぶつくさ言いながら、中村まで、深刻な顔をした。


「いや、ちょっと待て!こじらせたのは……!」


なぜ、皆に非難されているのか、わからぬと、岩崎は一人、慌てている。


「……ごめんなさい。ごめんなさい……」


と、いきなり、お咲が、月子の手を離し、しゃがみこむと、謝りながら、泣き出してしまった。


一同は、何が起こったのかと、ぎょっとする。


このいきなりの状態に、非難されてはと思ったのか、岩崎は、


「中村!お、お咲だ!」


「は?!」


中村も、動揺しつつ、なぜ自分なのかと、岩崎を見る。


「お咲は、絶対音感を持っているのかもしれない!私の演奏を、一度聞いただけで、空で唄えたのだぞ!」


「は?!なんのことやら、だが、岩崎、それは、つまり、お咲は音楽の才能を持ち合わせているということか?!」


うん、と、頷く岩崎の様子を受けて、中村もお咲を凝視する。


「よし!お咲!もう一度唄ってみろ!泣いている場合ではないぞ!」


言って、お咲へ手招きすると、部屋へ誘った。


「うん、それがいい!中村、お前もしっかりと、聞いてくれ」


これは、面白いことになった、などと、中村は、岩崎へ早く上がって、こちらへこいと急かすが、分からないのは、二代目で、月子ちゃん問題は、どうなった?!などと、騒いでいる。


「まあ、ここは、お咲に任せて、月子様、歩けますか?お部屋へ御案内致します。どうぞ、私の腕におつかまりください」


吉田に、そっと、腕を差し出された月子は、お気を遣わず……と、言いかけ、渋い顔をする吉田の様子に気が付いた。


「……何事でしょう。お咲の事は、気になりますなぁ」


「吉田さん?」


「お気付きでしょう?月子様。お咲は、なぜ、騒ぎが起こると、いつも謝り、泣くのでしょう?」


あっと、月子は、息を飲む。


確か、岩崎邸でも……。


「やはり、お咲は、口減らし、なのでしょうね。それも、余程の家……だったのでしょう……」


控えめな吉田の言葉に、月子は、どきりとした。


お咲も、月子同様、家族に虐げられていたのかもしれない。そこには、貧困という問題があったのだろう。


吉田の言い含む意味が、月子には良く分かるだけに、返す言葉もなく、胸が締め付けられた。


「では!お咲による、ヨハン・ゼバスティアン・バッハによる作曲、G線上のアリアを!」


居間から、岩崎の大声と拍手が流れて来る。


お咲の唄声が聞こえる中、吉田は、居間の隣りの部屋へ入って行った。


四畳半程の部屋だった。


置かれてあるのは、文机に、衣裳を仕舞う小箪笥のみの簡素さだが、どうしたことか、文机の上は、鉛筆や紙束などが、無造作に置かれてある。何か作業をしていて、そのままの状態に見えた。


置かれてある紙束には、奇妙な横線が書かれており黒い丸印が、びっしり記されている。


「こちらは、京介様の書斎兼、寝室で、あのように、作曲作業をされておられます」


月子が、文机を珍しそうに眺めていたからか、吉田が説明してくれるのだが、月子には、今一つ、意味が分からなかった。


きっと、岩崎の仕事なのだろうと思っていると、吉田は、前に見えるふすまを開けた。


「続き間が、月子様とお咲の部屋ということで。空き部屋は、こちらしかなかったもので、申し訳ありません」


壁には、背の高い本棚が数個置かれており、背表紙に外国語が書かれた本がぎっしり並んでいる。


入りきらなかったのか、床にも、雑誌物が、積み重なって置かれてある。表紙には、こちらも、外国語が書かれており、月子が見たこともない西洋の楽器を演奏する人々の絵が描かれていた。


「あいすみません。一通りは、片付けたのですが、どうしても、京介様のお荷物が、邪魔になるでしょう……ご辛抱くださいましたら……」


言って、吉田は、月子へ深々と頭を下げた。


「あ、あの!吉田さん!そ、そんな!十分です!お部屋を用意して頂けるだけで、本当に、ありがたい話ですから!」


目上の吉田に、頭を下げられて、妙に緊張してしまった月子は、入口で、佇んでいることしかできない。


「おお、そうだ!私は、戻らなければなりませんので、月子様、お召しかえいただけませんか?」


吉田の視線を辿ると、二組並ぶ真新しい布団の上に、お咲が持って来た包みと、もうひとつ、包みがあった。


おそらく、そちらに、月子が着ていた木綿の着物が入っているのだろう。


「あ、あの、お布団まで用意して頂いたの……でしょうか。何から何まで、すみません。そ、それと、お着物も、お返ししますので……」


手回しの良さに、月子は、恐縮しつつ、吉田へ礼を言った。


「いえいえ、これが、私の仕事ですし、お着物は、月子様のものですよ。少し寸法直しをした方がよろしいようで、御屋敷へ一旦持って帰るだけです。まあ、奥様のお下がりになりますが。何しろ、奥様は、着道楽。次から次へと着物も増えて、おまけに、若いときからの着物も取ってありますから、岩崎邸は、奥様のお着物に、ほとほと困っているのです。そうゆうことで、もし、よろしければ。月子様へ、お譲りしたいと、奥様も申しておりまして……あ!勿論、新しくお仕立てもいたします!」


僭越ながら寸法は、月子の着ていた着物から測ったと、吉田は、完璧過ぎる手配を月子へ説明し、では、と、踵を返しかけ……。


「おお!私としたことが!そちらのふすまが、居間に繋がっております。お着替えが終わりましたら、どうぞ、そちらから」


ここは、岩崎の部屋と居間と、隣り合わせで続いているのかと月子は間取りを理解し、はい、と返事をした。


「では、居間でお待ちしております」


きちりと、吉田は、頭を下げるが、


「そうそう、先ほどの件ですがね……、私が思いますに、月子様は、京介様の事を、旦那様とお呼びになられるのはいかがでしょう?京介様が、月子様の事を何とお呼びになるかは……京介様の自由にさせて差し上げるということで、ならば、丸く収まりませんかねぇ?」


ふふふ、と、小さく笑いながら、吉田は出て行った。


「……旦那様……か……」


吉田の提案に、なるほど、と月子は思い、呟いてみるが、たちまち、かっと、顔が火照った。


同時に、あの往来で岩崎が言った、一緒に歩んでくれという言葉を思い出していた。

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