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第29話

「……岩崎様」


険悪を越え、喧騒が起こっている状態に、月子は堪らなくなり、岩崎を伺った。


芳子が、瀬川をひたすら呼んでいる。


みのるが、蹴った茶碗のせいで、男爵の上着に茶がかかり、濡れてしまったからだ。


客人に、自分の名前を連呼された瀬川は、障子を開けて転がり込んで来た。


廊下に控えていたのか、起こったことは、すでに分かっているようで、男爵に上着をひとまず脱ぐよう勧めてくる。


「おお、なんとか、まとまりそうだ」


この騒動のきっかけを作ったとも言える岩崎が、呑気に言った。


その一言に、どうにか平静を取り戻していた佐紀子は、さっと顔をあげると、月子を睨み付けた。


みのる様!!屋敷を御案内いたします!!」


即座に、みのるを誘い、今度は、岩崎へ視線を定める。


「……お先にどうぞ。同時に腰をあげるのは、あまり良くないでしょうから」


どう見ても、対抗している素振りの佐紀子へ、岩崎は遠慮ぎみに声をかける。


「それに、白状すると足が痺れていてね、すぐには立てないのだよ」


照れ笑いながら岩崎は、月子を見た。


「……もしかして、私のせいで……」


膝に乗っているせいで、月子の重みのせいで、岩崎は、足が痺れてしまったのだろうか。


「あ、あの!申し訳ありません!私が!」


ああ、違う違う、と、岩崎は、単に正座が苦手だと言い張るが、月子は、慌てた。


よくよく考えれば、不自然、どころか、確かにみのるの言う様に、何事か、はたまた、ふしだらと思われてもおかしくない態勢なのだ。


男の膝の上にどんな理由があれ、座るというのは、まずかろう……。


月子は、このままでは、いられないと、立ち上がろうとするが、やはり、足首が痛み、体が揺らいでしまった。


そして、体勢を持ち直そうとばかりに、つい、岩崎へしがみついてしまう。


いきなり月子の重みがかかった岩崎も、同じく体が揺らぎ……。


その場にいる物達は、呆然とした。


岩崎、月子の二人が、見事に畳へ転がったからだ。それも、岩崎が、月子へ覆い被さるように。


「何やってんの、あんた達。そこまで、やるって、何なの?」


自分への嫌がらせなのか、と、みのるは、言いたいようで、そんじゃあ、こっちも、と、佐紀子を見る。


「さっさと、屋敷の案内してよ」


変わらずの、ぞんざいな口振りと態度のまま、みのるは、立ち上がり、佐紀子へ、早くしろと催促した。


「そ、そ、それが、よ、良いですわ!ねぇ、田村様!」


野口のおばが、どうしようもなくなったのか、オロオロしつつ、田村へ口添えした。


ああ、そうだ、それがいい、と、何気に場の雰囲気は、なごみかける。


「で、いつまで、あんた達は、そうしてるの?」


佐紀子を急かしつつ、みのるが、岩崎と月子に冷たく言い放つ。


岩崎は、事の次第を理解して、わぁと叫び、月子から慌てて離れた。


月子も、顔を真っ赤にしながら、起き上がろうとするが、はずかしさと緊張の余り、上手く起き上がれない。


「す、すまない。すまなかった。と、とにかく、起きなさい」


岩崎が、月子へ手を差出し、その体を起こそうとする。


みのる様、こちらへ、裏方の皆へ紹介いたします。瀬川!」


あたふたしている、岩崎と月子のことなど完全に無視して、佐紀子は、瀬川を引き連れ、部屋の向こう側、続き間を仕切っている襖を開けると、屋敷の奥へ歩んで行く。


みのるは、退屈そうに後に続く。


はあ、と、野口のおばが、息をつき、そして、じろりと、月子を見た。


「あらまあ、二組とも、上手く行きそうね。そう思いませんこと?」


ほほほほ、と、芳子が、上機嫌で笑いつつも、どこか、不自然に口角を上げ、野口のおばを見た。


「あっ、え、ええ、本当に。そ、それで、田村様!ほら、仲人の件を……」


居心地が悪そうにしながら、野口のおばは、田村へ何か頼みこんでいる。


「ああ、そ、そうだ!岩崎様に、みのると、佐紀子さんの仲人をお願いできないかと……」


田村も、思い出したとばかりに、男爵へ願い出る。


「あら、まあ。それじゃあ、こちらの仲人は、田村様になるわけですか?なんだか、おかしな話ねぇ。京一さん?」


「うん、そうだなぁ。京介は、確かに次男だけどねぇ、これは男爵家の婚姻だ。そこで、田村さんというのは、何か、おかしい」


「ですわよねぇ」


なんだろう、なんだろう、と、呟きながら、男爵夫婦は、首をひねっている。


その様子を見た、田村と、野口のおばは、どうか聞かなかったことにしてくれ、などと言いながら、男爵夫婦へひたすら頭をさげた。

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