「京一さん!」
芳子が、嬉しげに叫んだ。
はいはい、と、男爵が入り口ドアから、顔を突き出し、にやけている。
「やはり、夫婦して……」
岩崎は、当然、兄夫婦に、はめられたと、ぶつぶつ言っている。
「京一さん!京介さんが、月子さんと暮らすようなのよ!」
そりゃ、いいと、男爵は言いながら部屋へ入って来ると、見合いが、上手く行ったのだから、結納に祝言にと、先々の事を、芳子と相談し始める。
「月子さん。ごめんなさいね、こんな妙なお見合いになっちゃって。でも、こうでもしないと、京介さんったら、動かないから。もう、昔の事をいつまでも、忘れなくって。あらゆる縁談話を断ってきたのよ」
芳子は言って、はっとすると、すぐに口をつぐんだ。
「ああ!そうだ!肝心の西条家へ、報告の挨拶に伺った方がいいな!そう、そうだろ!芳子!」
男爵が、慌てて、何かごまかす素振りを見せる。
「ええ、そうだわね!そう、そうよ!そうよね!ご実家への挨拶は、大切よね!そ、それに、月子さんも、身の回りの必要なものを持って来たいだろうし……」
芳子は、必死に取り繕っているが、その不自然な態度よりも、月子には、西条家へという響きに、びくついた。
「あ、あの!荷物はありません!で、ですから、西条家へは!」
佐紀子のことだ、辻褄合わせのごとく、今の岩崎男爵夫婦のように、なんだかんだと、ごまかしながらも、悪態をつくだろう。
男爵夫婦の様子は、月子も少しひっかかったが、悪意はないように思えた。しかし、佐紀子は、どう出てくることか。チクチクと、嫌みを言われ、月子へその嫌みに同意を求めることだろう。
訳あり、と、岩崎の事を、ややもすると、見下した口振りだったのだ。
ならば、岩崎へも、佐紀子は、遠回しに言い掛かりをつけ、鼻で笑うはず。
おおよそ、起こりえることが想像出来るだけに、月子は、西条家へ出向きたくはなかった。
そもそも、岩崎は、同居人、としてならと、見合いの事になど、一切触れようとしない。その態度を、佐紀子の前で取られれば、もしかしたら、無かったことにと、佐紀子が、岩崎へ断りを入れ、月子は、西条家にも、当然、岩崎の所へも居る事はできずで、路頭に迷う事になるかもしれない。
いや、母の事がある。
佐紀子が、岩崎男爵家で月子の母が世話になると知ったなら、どのような邪魔立てをしてくるか。
考えすぎだとは思うが……相手は、佐紀子なのだ……。
蒼白な面持ちで、拒むような事を言っている月子の姿に、岩崎が反応した。
「君、荷物は無いとは?たってきの着替えぐらいは、取りに帰った方が良いだろうし、御母上の入り用な物も、あるだろうし……」
そこまで言って、岩崎は、黙りこむ。
月子が、ポロポロと涙を流していた。
「月子さんも、お咲ちゃんと一緒なのね……」
芳子は、遠くを望みつつ、呟いた。
「……京介、月子さんと、お咲の面倒を見ろ。二人とも、結局のところ、口減らしに合っているんだ」
「兄上?」
岩崎が、訳がわからんと、兄を見る。
「……京介さん、つまり、私と一緒なのよ。月子さん?西条の家と折り合いが悪いのよね?」
大丈夫、私もそうだからと、芳子は、月子へ優しく語りかけ、事情を話してみるように勧めた。
「芳子は、妾の子と実家で蔑みを受けていたが、月子さんは、連れ子だから、もっと、厳しい目に合っていたのだろう。違うかい?」
男爵も、月子をどこか庇うように、声をかける。
流れる空気が、凍りついたような場の雰囲気を受け、岩崎は黙りこんだ。
「月子さん、一人で抱え込む必要はないんだよ?」
沈黙を破りつつ、男爵が粘って来る。
ただ、月子にとって、それは決して嫌なものではなく、頼りになる言葉に感じられた。
そして……。
月子は、ポツリポツリと、この見合いの、そもそもの始まり、佐紀子の縁談をまとめる為に月子が動かされた事、母は胸の病だからと、蔵へ追いやられ、挙げ句、西条家の籍から抜かれてしまった事などを、男爵家の面々に語った。
「……なんだね!その、佐紀子という義姉は!」
たちまち、岩崎が、吠える。
「ああ、京介さん、だから、やめて!その大声!耳が痛いじゃない!あらまあ、お咲ちゃんも、びっくりしてる!」
芳子の向かいに座るお咲は、手に持っていた焼き菓子を、慌てて皿へ戻し、ごめんなさい、ごめんなさいと、言いながら、こちらも、泣きだしてしまった。
「いや、ちょっと待ってください!」
岩崎は、何が起こったのかと、おろおろした。
「ああ、そうか!佐紀子と、お咲、同じ、さき、だねぇ。勘違いしたか!」
おお、と、男爵はお咲が泣き出した理由に気がつき、芳子も、なるほどと、頷きながら、
「やだわ!もう!どうして、こうも訳ありが、集まっちゃったのかしら?!」
などと、笑っているが、その表情は、どこか、辛そうだった。
「……お咲ちゃん、あなたの事じゃないのよ?お菓子は、たんと食べていいのよ?」
泣きじゃくるお咲に声をかける芳子の姿に男爵は、目を細める。
「月子さんも、もう、泣かなくていいんだよ?月子さんの辛さは、残念ながら、私には全て理解出来ないけれど、芳子は、おおかたわかるはずだ。そして、お咲にもね。皆、各々、辛い目にあっているのだから……」
まあね、と、言いながら、芳子が懐からハンカチを取り出し、涙を拭くように月子へ手渡した。
真っ白な布は細やかなレースで縁取りされており、小さな花の刺繍が上品だった。
高級そうなものを手渡された月子は戸惑う。
「……どうして……私に……私なんかに……」
ここまで、良くしてもらう理由はないと、月子は、つい、言っていた。
「ノブレス・オブリージュだよ」
男爵が、すかさず返事をする。
「つまりだね、私達は、特権階級にいる。だからと言ってそれに、あまんじてはならない。上位の立場にいるからこそ、社会の模範となるように振る舞うべき、という、まあ、西洋の考え方なんだが、岩崎家の家訓でもあるんだ」
それに、従っているだけだと、男爵は、微笑んだ。
「ちょっと、待ってください。それは、男爵たるもの、慈善事業にも力を入れろという話であって、兄上の言い方では、彼女へ施しているだけだと……そう、捉えられても致し方ない口振りではないですか?!」
何故か、岩崎が、むきになっている。
言われた、男爵は、ニマニマし、芳子は、
「ああ!また、大きな声をだすんだから!それに、なんなの!さっきから、なんだかんだと、堂々巡り!私、イライラしちゃうわ!」
と、京介へ不満を漏らす。
「芳子、分からないかい?京介は、照れてるんだよ。はっきり言わないといういうことはだね、それだけ、月子さんの事を気に入って、しかしだ、はっきり、言えないという、どうしたら良いのだと、戸惑っている状態なのだろう」
「あっ!そうか!そうね!京介さんって、遠回しに言うところがあるものね!」
「とにかく、もう、話は、まとまった、ということで、私は通すぞ!京介!」
だから、抜き打ちで、見合いしたのがよかったんだ、とかなんとか、男爵は、喜びつつ、芳子も、同意している。
「ねえ、京一さん、なんだか、本当に、良い感じね。だって、京介さん、音楽学校での教鞭も落ち着いて来ているし、なんと言っても!念願の交響楽団に入団できたんですもの!これは、単なる偶然じゃないわよ!月子さんと、ご縁があるってことだわ!」
今にも飛び上がりそうな勢いで、芳子は弾けているが、岩崎は、ああ、と、口ごもりつつ、男爵を見た。
「兄上、入団については、本日、辞退して参りました」
「そうか……って、ちょっと、待て!辞退とは、なんだっ!京介!」
「ええ?!辞退って?!どうゆうこと!京介さん!」
岩崎の一言に、男爵夫婦は目を見開き、声をはりあげる。
それは、岩崎の声より、ひときわ大きなもので、月子もお咲も、驚きから、びくりと肩を揺らした。