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第17話

怒鳴る岩崎に、看護婦は臆することなく、月子親子を冷たく見据えた。


「それで、準備はできましたか?」


淡々と看護婦は言う。


「準備とは、転院のことかね?」


岩崎が、苦々しそうに顔をしかめると、看護婦へ食ってかかった。


岡崎、岩崎、そういう問題ではなく、先程からの看護婦の態度に、岩崎は、我慢ならないようだった。


「はい、この部屋は急患用の部屋ですから、出来るだけ早く出ていってもらわなければならないのです。ちょうど、ご親族が来られてこちらも助かります」


顔色ひとつ変えるわけでない看護婦の様子に、岩崎の怒鳴り声が再び響き渡る。


お静かに。と、嫌みたらしく看護婦は、言いつつ、紙切れを月子親子へ差し出した。


「今日までの入院代金です。お支払を。ああ、こちらの、大声を出すご親族にお渡しした方がよろしいですか?」


目を細めながら看護婦は、少し、にやついていた。親子には、支払いなど無理だろうと、言いたげに。


「こちらで構わん!」


岩崎は、堪忍ならんとばかりに、差し出されている紙切れ、おそらく、請求書を引ったくった。


「では、受付までお越し願いますか?退院の手続きもございますし……」


どうぞ、と、看護婦は、ドアを開け、岩崎を誘った。


うむ、と、威厳を持たせ答える岩崎だったが、月子へ、荷物をまとめる様に言うと、看護婦に先導されるがままに、部屋から出ていった。


パタンとドアが閉まったとたん、


「月子……」


母が、言いにくそうな顔をしながら、月子を見ている。


大丈夫よ、と、月子も言いたい所だったが、さすがに、それは無理な話。赤の他人の岩崎に、全て任せ、いや、こんなにも頼って良いのだろうかと、焦っている。


「……月子、岩崎様に頼りましょう」


「え?」


「今の私達では、どうにもならないもの。でもね、母さん、調子がよくなったら、住む所を見つけて、内職でもしようと思うの。それで、食べてはいけないけど、そのうち、働ける様になるだろうし……月子とも、暮らせるわ」


そして、岩崎へ、工面してくれた金を少しづつ返して行けばよいと、母は、今後について語った。


きっと、母は、岡崎姓に戻された事で、ある種腹を括ったのだろう。というよりも、あの看護婦の態度を見ると、それなりの事が、ここでもあったに違いない。


西条家を出ても、母は、苦労をしていたのだと思うと、月子の胸は熱くなる。


月子は、母へ、岩崎との事、つまり、巾着を奪われ取り戻してもらった事から、男爵夫妻の事など、今までの経緯を母に話した。


「……じゃあ、なおさら、母さんは、早くよくならなきゃね。岩崎様は、月子とのことは、結局、行きがかり上、ということでしょう……?」


母は、そこまで言うと、一息置いた。


どこか、考えあぐねている母の様子に、月子は、心配になった。


「母さん?」


「……月子。取りあえず、岩崎様の所で世話になりなさい。西条の家の面子もあるでしょう。今更、あちらと揉めたくないからね。でも、母さんの体がしっかりしたら……二人で暮らそう。それまで、少し、辛抱して……」


つまり、どうゆう形になるのかはわからないが、同居人として、岩崎の世話になれと、母は、言いたいようだった。


「ですがね、御母上。病に、期限をつけるのは、よろしくない。というよりも、そんなに無理をする必要はありません!先が見えない不安はあるかもしれないが、とにかく、時間をかけるしかない。早く、早く、と、焦るのはよろしくないのではないですか?」


親子の会話を、大きな声が邪魔をした。


岩崎が、受付から戻ってきていた。


まったく、と、岩崎は悪態をついた。


どうやら、受付でも、ひと悶着あったようだ。


「さっさと、この医院から出た方がいい。ろくな所じゃない!」


怒鳴り散らす岩崎の勢いに、月子親子は、小さくなる。


岩崎が、激怒する原因を、自分達も少なくとも、作ってしまっているのだ。


岩崎は、人当たり良く、もっともな事を月子親子へ言ってはいるが、そもそも、出会ったばかりの赤の他人……。


何から何まで、しかも、金銭的な事を頼りきっている。果たして、本当に良いのだろうか。月子に、迷いが現れていた。


ああ、と、岩崎は言って、何もご心配なく。と、怒鳴った詫びをいれる事で、月子の母へ念を押している。


「本宅から、車を呼びました。病院の手配ができるまで、岩崎の屋敷でお休みください」


「あ、あの、男爵家で、ということですか?」


岩崎の口振りから、神田旭町のあの家、という感じではないと月子は思い、尋ねた。


「うん、あいにく、私の家は、あの通り小さく、狭い。たってき、と言っても、御母上に不憫をかけるだろうからなぁ。部屋はいくらでもある、使用人もいる、本宅の方が、不自由はしないだろう。君も、御母上と一緒に滞在すれば、丸くおさまるわけだし」


どうも、岩崎は、月子との同居に、躊躇しているようだった。


できれば、岩崎男爵家に行って欲しいと、母親にかこつけて、言い逃れしているように見える。


確かに、男女が一つ屋根の下で暮らすのは、不自然であるし、月子にも、気まずさがあった。


ただ……。


佐紀子の事が思い起こされる。西条家、いや、佐紀子は、月子親子を籍から抜きたいと願っている。


母は、すでに、岡崎姓に戻った。


おそらく、義父と離縁したことにして、西条の籍から母を追い出したのだろう。


では、月子は?


結婚して、相手方の籍へ入り、西条の籍から抜けるという段取りを組んでいるはず。


単に、岩崎男爵家に世話になる、では、月子は、西条の人間のまま。それでは、何かしら西条家といさかいが起こるだろう。


だからといって……。


まさか、岩崎に、結婚してくれ、とも言えない。


そこへ、


「あの、お気持ちは有りがたいのですが、娘は、岩崎様、あなた様の所に置いてもらえませんでしょうか?」


小さくではあるが、母が、しっかりとした口調で言った。


「娘は、見合いということで、あなた様にお会いしております。それに、たまたま私の事が重なった次第……。色々とお世話してくださるのは、大変有りがたいのですが……あなた様の所にいられないとなると、娘の立場が……。ええ、勝手な事を言っているのは承知の上です。ただ……お恥ずかしい事に、こちらにも、事情が……ありまして……」


「か、母さん!」


母は、コクンとうなずいた。月子への、西条家からの仕打ちとも言うべき、置かれている立場がわかっていると言いたげに。


「……まあ、確かに、一緒にいないと、私が見合いを断った、ということになる。そうなると、お嬢さんには、不名誉な事になりますね。しかし……私は、とてもじゃないが、結婚できる立場ではないのです。一度は、本宅から、勘当された身、そして、仕事も、教鞭を取っているとはいえ、それは、非常勤で、週三日。それでは、家族を養う事など無理なのです……」


「……だから、岩崎様は、独りでおられると……」


月子の母の問いに、岩崎は、ぴくりと肩を揺らした。まるで、何か、もっと肝心な理由を隠すかのような仕草と共に、岩崎は、押し黙る。


その様子に、野口のおばが、言っていた、訳ありという言葉を月子は思い出した。

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