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第16話

まさか、こんなにも早く……。


──岡崎。


それは、月子親子の旧姓だった。


西条家に入ることで、二人は、この苗字を手放した。


それなのに、母は、看護婦に岡崎と呼ばれている。


つまり、西条から岡崎へと戻ったということで、佐紀子は言った事を忘れていなかった……。


母は、西条家の戸籍から抜かれてしまったのだ。それも、数日の間に。


言われていた事とはいえ、余りにも急な話だった。


一体何なのだろうと、月子は動揺しきり、涙は止まることを知らない。


「……余計な事を尋ねてしまったか。言いたくなければ、別に構わん。誰しも、聞かれたくない事はあるだろう」


頭上から、岩崎の遠慮がちな声がした。


月子が涙顔のまま見上げた先には、人力車で見た端正な横顔があった。


岩崎は、どこか物思いにふけるかのように、月子の母の部屋であろう、入り口ドアを見ている。


「……構わんか?」


それだけ言って、失礼しますと、部屋の中へ声をかける。


ドアの向こうから、小さく、はい、と返事がする。


月子の聞き慣れた母の声だった。


部屋へ入ると、小さな窓が、換気の為か開け放されている。


外の冷えた空気が、まともに流れ込んで、流石に肌寒いのだろう。ベッドに横になっている母は、掛け布団の上に、身にまとって来た大島の着物を重掛けていた。


「何か羽織るものを……持ってくればよかったね……」


うっかりしたと顔を歪ませる月子に母は、あら、大丈夫よと、何ともない素振りを見せる。が、言いながら、瞳を大きく見開いた。


「つ、月子、どうしたの?!」


母の視線は、月子の足に巻かれた木綿布ほうたいに、留まっている。


「あ、これは……」


「申し訳ありません。お嬢さんは、足を挫いて……よろけた所を、助けようとしましたが、間に合わず……」


岩崎が、月子の言わんとすることを続けた。


そうですか、と、言いつつ、母は、ふと、不思議そうに岩崎を見る。


「あ!母さん!これは!」


月子は、岩崎に抱き抱えられていることを思い出す。


そして、大丈夫ですからと、岩崎へ降ろしてくれと懇願した。


眉をしかめつつ、岩崎は、ぐるりと部屋を見渡すと、ベッドの側に置いてある丸椅子に月子を座らせた。


「……月子、もしかして、そちら様は……」


「あっ、えっと、あの……」


素直に見合いの相手だと母へ言うべきか。


そもそも、見合い、というより、次から次へ人が現れ、ワイワイ言った挙げ句……どうなったのか?


田口屋の二代目は、同居しろと言い、岩崎も、先ほど、同居人とは言ったが、こちらは、どう考えても行き掛かり上、いわば、適当に流した様に思えた。


結局、岩崎とは、どうなるのだろう。


母へ説明する前に、月子自身が説明して欲しかった。


そんな、まごまごしているそばから、岩崎の大声が、響き渡った。


「あっ!いや!これは!失礼しました!私は、岩崎男爵家の次男。岩崎京介と申します。縁あって、お嬢さんと、見合いめいた事をいたしました」


「……男爵様!!」


母は、慌てて起き上がろうとしたが、咳き込んでしまう。


「ご無理なさらずに……そのままで」


岩崎が、労りの言葉をかける。


「あ、あの!換気してます!だ、大丈夫です!」


母が、咳き込むと、散々、病がうつると言われて来た。その、経験から、月子は、岩崎を安堵させようと声を張り上げた。


「ん?心配無用だ。昔は療養所サナトリウムに、良く演奏に赴いたものだ。病には、慣れている」


言って、岩崎は、月子を安心させようとしてか、大きく頷く。


「……演奏?」


「バタバタして、私の事を語っていなかった。母上へも、お知らせしないと、後納得いかないだろう……」


そこまで言うと、岩崎は、ビシリと背筋を伸ばし、一礼すると、自身の事を語り始めた。


月子親子は、まさに開いた口がふさがらない。


男爵家の人間というだけでも、雲の上の人なのに、聞かされた岩崎の身分というべきか、経歴は、とてつもないものだったからだ。


岩崎は、欧州ヨーロッパで、音楽を学び、帰国後、新設された、神田にある私立の音楽学校で教鞭をとっているという。


「ピアノと弦楽器、及び、作曲学を教えています」


さらりと言ってくれるが、月子親子には、縁遠い世界の話で、訳が分からず。ただ、黙って岩崎を見つめるしかできなかった。


「月子……」


「う、うん……」


あまりのことに、親子は、それだけしか言葉を交わせられない。


しかし、岩崎は男爵家の人間。


二人が想像もつかない生活をしていて当たり前で、欧州ヨーロッパで勉強し、音楽学校で教鞭を取っていても何ら不思議な事ではない。


とはいえ、やはり、月子親子にはついていけない話だった。


「何か……?」


岩崎は、怪訝そうに親子を見る。


「……そのようなご立派な方の所へ……月子は……」


少し不安げに、でも、どこか安堵した母の様子に、月子は、はっとする。母は、蔵の中で話した事を覚えているのだ……。


「あ、あの、母さん、お見合いは、その……」


いくら、月子が、足に怪我をしたと言っても、男性に、抱き抱えられて現れるというのも、説明がつかない。


これが、見合いの相手なら、あり得る話しではある。


そういえば、岩崎も、見合いめいたとかなんとか、言い切った。


母は、岩崎が、月子の見合い相手だと、そして、話は、良い方向へ進んでいると思っていると、月子は思った。


見合いといっても、家同士が決めた事で、良いも悪いも、話が持ち上がった時点で、行く末は、すでに、決まっている。ただ、話を進めたのは、西条家で、月子の縁談を真剣に思っての事ではない。


これは、果たして、見合いと言って良いものなのか、そして、あの騒ぎ。


月子は、母へ、どう答えればよいのかと迷った。


そんな月子の代わりに、岩崎が、堂々と答える。


「当面は、お嬢さんとは、同居という形を取ると思います。それが、どうやら、周りの望みのようなので。逆らうと、また、ややこしくなるでしょうし」


うん、そういうことで、良かろう。などと、岩崎は、納得している。


「月子?いきなり、同居って、大丈夫?」


母に、問われた月子は、返事に困った。


どうも、岩崎の言う同居というのは、見合いの結果、つまり、嫁入りという意味合いではなく、文字通り、同居人のような気がする。


「まあ、ともかくです。お嬢さんのことは、ご安心ください。御母上は、お体を労ってください」


それは、つまり。


「あ、あの!その、母の調子が良くなるまで、ということなのですか!!」


月子は、岩崎の言わんとする事が何となく読めた気がして、おもわず、叫んでいた。


「いや、まあ、そうとも言えるかなぁ。つまり、あのお節介夫婦が、納得するかどうかにかかっているのだよ。君を同居人としないと、また、新たな騒ぎが起こるだろうしなぁ」


岩崎は、思案しつつ、続けて月子へ言った。


「だが、同じ屋根の下で暮らすのも、何か問題のような気がするのだ。そもそも、結婚する仲でもないのに、同居は、どうかと。それに、そうなれば、おそらく、責任を取れと、義姉上あたりが、言ってくるはず。しかし……、私は結婚する気はない。独り身でいるつもりだ……」


岩崎は、何か、言い渋った。


一方、結婚が目的ではないと言われた月子は、どう受け止めれば良いのかと考え込んだ。


心の中を、冷えた空気が流れて行くような気がする。それは、寂しさ、ともいえない、月子自身も、よくわからない感情だった。


岩崎の口振りからして、決して月子を邪険にしている、と、言うわけでもなさそうだ。月子同様、岩崎も、対処に困っているだけだとわかる。だが、結婚はしない。独り身でいるという所が、月子には、とても厳しい言葉に聞こえたのだった。


「……あの、では、暫くの間だけ、ほんの暫くの間、娘を預かってもらえませんでしょうか?」


横になる月子の母が、見かねたように口を開く。


「娘は、行くところがないのです。私の具合が落ちつくまで、どうか……」


岩崎へ向けた、母の懇願に、月子は、理解した。


母は、事情が、分かっているのだと……。


思えば、ここで、岡崎と呼ばれている。それで、西条家が何を望んでいるのか、今までの経験から、母も、すぐに分かるはず。


「いや、まあ、それは、おいおい考えれば……」


岩崎は、明け透けに言い過ぎたと、思ったのか、慌てて月子親子へ弁明しようとした。


と、そこへ……。


「岡崎さん、よろしいですか?」


看護婦が、ドアを開け、病室へ入って来る。


「君!ノックぐらい、出来ないのか!内輪の話をしているのだぞ!そもそもだな、岡崎ではなく、私は岩崎だ!」


部屋に、岩崎の大声が響き渡った。

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