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第11話

月子が、おぶさっている背中は広かった。


少し煙草の香りがした義父の物よりも、断然広くがっしりとしている。


上背もかなりあり、おぶさっている月子の視界は、他人の頭のてっぺんが見えるという具合で、日頃目にする物より優に高い。


触れている男の上着の生地も、どことなく柔らかく、洋装に疎い月子でも、上質なのだろうと分かる物だ。


確かに、きちりと、中折れ帽子を被り、立派な口髭を蓄え、颯爽と洋服を着こなしているのだから、男は、おそらく、それなりの立場ある仕事につき、家族を養っているのだろう。


などと、月子が、色々考えていると、その男が、沈黙を破った。しかも、やはり、大きな声で。


「全く、街並みや、暮らしぶりは、西洋化が進んでも、人が育っていないのだから、始末に終えない」


「……え?」


「さっきの迷惑乗車だよ。あのような事は、西洋では見られない。まったく困ったものだ」


「そ、そうですか……」


男につられて、月子は、つい返事をしていた。


「そして、引ったくりだ。まあ、あの手の輩は、どこの国に行ってもいるがね。問題は、君だよ。ちゃんと、助けを呼びたまえ!声をあげなさい!」


皆が助けてくれるとは限らないが、必ず、誰かは、助けてくれる。そんなことを、男は、ぶつぶつ言っている。


「まあ、私が偶然、引ったくりの現場を見たから、取り戻すことができたが……」


男の言葉に月子は、気がついた。巾着を取り戻してもらった礼をまだ言っていなかった。


「あ、あ!あの、お礼をまだ!」


「ああ、礼など構わんよ。人として当然の事をしただけだ」


建前とも取れる返事に、月子は、余計に焦る。


行きがかり上、仕方なくなら、なおさら、礼をしなければならない。が、果たして、すでに、男の行為は、有り難うございます。の、言葉ですまされる範囲を越えている。


「ああ、安心しなさい。私も同じ方向へ向かう所だった。気にすることはない」


月子の焦りに追い打ちをかけるかのように、男は、何の気なく言ってくれた。


「……でも……」


月子は、口ごもる。


が、そうだ、後で出直すということも出来る。


見合い先で、上手く女中として置いてもらえれば、それが、上手くいかなくても、神田界隈なら、なんらかの仕事が見つかるかもしれない。そのまま、街へ出て、給人の貼り紙を探すなり、職の斡旋をしている口入屋に飛び込む方法もあるだろう。


そうして、腰を落ち着かせてから、手土産の一つでも持って、訪ねればよい。


甘い考えだと思いつつも、なんとかなるような気がするのは、男のせいかもしれなかった。


男は、歩幅を大きく踏み出しているが、月子に揺れを感じさせないようになのか、慎重に歩んでいた。月子に負担をかけまいと、それなりに気遣かってくれているようだった。


だからこそ、やはり、ちゃんと、礼は、しなければならない。


「あ、あの!お名前とお住まいを伺ってもよろしいでしょうか?」


月子は、思いきって、男へ声をかける。


「……礼……ということかね?それには、及ばんよ。気にすることはない……」


しかし、男の方が、一枚上手というより、年の功なのか、月子の思いを読み取っていた。


「で、ですが……それでは……」


「君の気持ちも分かるがね、私は、構わないと言っているんだよ。だから、君も、よけいな気を回さなくてよろしい」


頭ごなしに言われて、月子に返す言葉はなく、男の気難しさに、その背で、ただ小さくなるしかない。


「とにかくだ、余計なことは考えないこと。そこの筋を入ったら、到着だ。君は、その後のことを考えた方がいいんじゃないのか?」


電車通りの喧騒を抜け、有名どころの店から、個人が商う商店が連なりと、景色は、いつの間にか変わっていた。


人通りも、まばらになり、繁華街から、生活臭が感じられる街並みに移っている。


言われた筋には、小店に混じり、民家らしき建物がちらほら見えた。


男は、月子を背負ったまま、すたすたと、迷いなく歩いている。


月子は、ふと思う。


行き先の住所を書いた紙を一度見ただけなのに、と。


まるで、神田界隈の地図が頭のなかに入っているかのように男は、目的地へ歩んでいる様に思えた。


確か、同じ方面へ向かう所だったとは言っていたが、それにしても……ここまで、すんなり行きつけるものなのだろうか?


先ほどの勢いは、どこへいったいのか、男は、押し黙ったまま進んでいる。


途中、路地へ入り、幾度か曲がりと、余りにも、勝手を知り過ぎている動きを、月子は不思議に思った。


そうこうするうち、男が、歩みを止める。


「……ここで、構わんかね?」


「え?」


前には、板塀に囲まれた小さな家があった。


「ここが、君の目的地、神田旭町の岩崎家だが?」


言うように、門柱には、岩崎と書かれた古びた表札がかかっている。


どら、と、男は言うと、月子を背負い直し、そのまま、門を潜った。


思えば、月子を背負ったまま、男は歩き続けている。それなり、体に負担がかかっているはずだ。


「あ、あの、お、降ります。こちらなら、ここで、私は……!」


おろおろしながら、月子は、男へ言うが、何故か、男は聞く耳を持たず、そのまま、家の玄関口へ歩いて行った。


「……まったく、人の家をなんだと思ってるんだ。また、勝手に入り込んでるな」


何かの合図のように、少しばかり、開かれている玄関のガラス戸を見て、男は悪態をついている。


「あ、あの!わ、私!」


月子は、慌てた。


男が、月子を背負ったまま、玄関のガラス戸を器用に開けたからだ。


そして、そのまま、家へ踏み込み、月子を玄関框へ下ろした。


よそ様の、それも、始めて訪ねて来た家の玄関框に腰を下ろしている状態に、月子は、面食らい、慌てて立とうとする。


「その足で、急に立つのは、危ない」


「え?!あっ、で、ですが!お家の方に、ご挨拶を!勝手に玄関に入っては!」


「家人が、許可しているんだ、気にすることはなかろう」


「え……?」


確か、今、男は、家人と言った……のだが……。


「あー、神田旭町の岩崎京介は、私、だ」


どこか、面映ゆそうに言う男をみて、月子は、胸元から、行き先が書かれた紙を取り出した。


神田、旭町、岩崎家、岩崎京介──。


確かに、男が、言った通りの言葉が、書かれている。


と、言うことは……。前にいる人物が……。


「なにやら、事情がありそうだったし、君も足を挫いていたし、路上で話すには、と、思って、連れてきた」


「え、あ、あの?!そ、それじゃあ……」


「見合い……なんだろ?」


「は、は、はい」


何がなんだか、訳が分からず、月子は、男──、岩崎とやらの問に、返事をしていた。


すると。


「え?!京さん、見合いって?!なにそれ?!というか、やっと、見合いする気にななったのかい?!」


手前の部屋の障子が開き、若い男が、ひょっこり顔を覗かせた。


「……兄上の差し金だろうが……と、いうより、二代目、お前、また勝手に上がり込んで!人の家をなんだと思ってるんだ!」


「あれ?女中を頼むってことだったから、ここで、待ち合わせ。それに、俺、大家だし、合鍵あるから、入れるし」


若い男も負けずと、言い返しているが、


「あっ!もしかして、あんたが、お咲ちゃん?」


月子に気がついたようで、何故か、若い男は、声をかけてくる。


「……ん?君、そうなのか?見合いの手伝い……ではなく?」


「京さん、何、言ってんの?」


ここの主、岩崎と、部屋から顔を覗かせている若い男とのやり取りに、さて、どう答えてよいのやらと、月子は、呆然と框に腰かけているしかなかった。

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