転んだはずみで、巾着を落としたのだろうか。
そんなことは、と、思いながら、訳もわからず月子は、地べたに座りこんだまま、辺りを見回した。
靴、草履、下駄……人の足元しか見えない。
ひょっとしたら、ぶつかった時に、巾着は……。
あの、ハンチング帽の男かもしれない。
たちまち、月子は青ざめた。
巾着の中には、月子の全財産、と、言っても子供の小遣い程度の額だが──、そして、これから、必要になる、釣り書が入っている。
困ったを越えた状況に、月子は動揺しきり、立ち上がることすら出来なかった。
そんな、座り込んだままの、月子の頭上で、男の声が響いた。
「巡査を呼ばれたいのか?!」
威厳のある大声の後に、痛てぇー、と、抗う若い男の声が続く。
「……君の物ではないのか?」
月子の前に巾着が差し出された。
「ちょっと!旦那!離してくだせぇよ!俺が、何したって言うんですっ!」
ハンチング帽を被った若い男が、叫んでいる。
その声に、辺りにいる者達が、何事かと視線をよこした。
「こいつが、人様の巾着を引ったくった。誰か、巡査を呼んでくれ!」
中折れ帽を被り、立派な口髭を蓄え、仕立ての良い洋服をまとう、大柄な男が、周囲を巻き込む勢いで声をあげた。
ひったくり、という響きに、たちまち、皆ざわつき始める。
「ち、ちょっと、待てよ!お、俺は、何もしてねぇよ!落ちていた巾着を拾っただけで、持ち主を探そうとしていただけだっ!」
状況に負けたのか、大柄な男に腕を掴まれているハンチング帽の男は、顔をひきつらせながら、言い訳の様なことを口走っている。
「それならば、持ち主に返しても良いのだな?!」
「あ、ああ、当たり前だろっ!」
男二人の言い争いに、何事かと、更に、人だかりが出来始めた。
「旦那!離してくれよ!お、俺は関係ないっ!」
ハンチング帽の男は、必死に掴まれている腕を振り払うと、出来ている人だかりを、潜り抜けるように駆けだして行った。
「……逃げられたか。まあ、いいだろう」
言って、大柄な男は、月子へ巾着を突きつけて来た。
何が起こったのか、わからないまま、月子は、恐る恐る、差し出されている巾着を受け取った。
「君も、引ったくられたなら、しっかり、声をあげなさい!ぼやぼやしていると、何もかも、巻き上げられてしまうぞ!」
説教じみた口調で畳み掛けられた月子は、ますます、混乱する。
「ああ、見世物ではない!さっさと、退いてくれ!」
その間も、大柄な男は、人だかりに声をかけ、蹴散らそうとしている。
月子は、そんな男の行いを、戻って来た巾着を握りしめ、黙って見ているのが精一杯だった。
集まっていた人々は、男の紳士ぜんとした振る舞いに押されてか、立ち去り始める。
そこで、月子も、やっと落ちつきを取り戻し、礼を言わねばと、立ち上がろうとしたが……。
足首に痛みが走り、顔を歪めた。
押されて転んだ時に、
「どうした、立てないのか?」
月子の様子を見て、大柄な男は、心配そうに声をかけてくるが、体格もがっしりしていれば、声も、先ほどと変わらず、大きい。
月子は、その迫力に驚いて、礼を言うどころか、コクンと頷くしかできなかった。
「それで、君は、何処まで行くつもりなのだい?」
月子が、自力で立てそうにないと見たのか、男は言いながら、手を差し出して来る。
手をとって、立ち上がれということなのだろうが、見知らぬ男の手を握ることに、月子は、ためらった。
そこも、男は、お見通しなのか、
「往来で、いつでも座り込んでいるわけにもいかんだろう。さあ、立ちなさい」
と、言ってくれる。
この、どこまでも、命令口調には、逆らえないと月子も観念し、恐る恐る、男の手を取り、立ち上がったが、やはり、ずきりと、足首に痛みが走った。
顔を歪める月子に、男も、気がついたようで、
「足を挫いたか……」
一言い、考えこんだ。
そして、月子へ背を向けてしゃがみこむ。
「このままも、らちがあかない。何処まで、行くつもりだった?それとも、家へ帰る途中だったのか?とにかく、行き先を言いなさい。送って行こう」
つまり、おぶされと言うことなのだろうが……。
巾着を取り戻して貰えただけでも、有難い話なのに、おぶって、月子の目的地まで連れて行ってもらうまでは、さすがに、甘えられない。
月子が、躊躇していると、またもや、男は、早く言わないかと、これまた、怒鳴り付けているような、大声で、行き先を尋ねて来た。
その声の大きさに、通り行く人々は、何事かと、チラチラ振りかえってくれる。
皆に見られるのが、恥ずかしく、月子は、余計口ごもった。
「このままだと、通行の邪魔になる。早く、私に、おぶさりなさい。そして、行き先を早く言いなさい」
手助けしてくれようとしているのは、月子にも十分分かるが、どうも、男の執拗な、そして、威圧的態度が、素直に受け入れられなかった。
とはいえ、確かに往来の邪魔になっていた。
下駄の鼻緒でも、切れたのかと、通行人は、つたなくたっている月子としゃがんでいる男に、チラリと目をやると、わざわざ避けて通っている。
確かに、ここを退かなければいけないのだろう。
月子は、観念し、懐から、例の行き先を書いた紙を取り出すと、男へ渡した。
「……ここへ、君は行くつもりなのだね?」
渡された紙を受け取り、男は、書かれてある住所に目をやった。
が、何故か、渋い顔をして、
「……ここに、何の用があるのだ」
と、どこか月子を責める様に言う。
その剣幕に近い勢いに、月子は、
見合いだと、つい答えていた。
「……しかし、君。見合いも何も。今日は平日で……。そのようなものは、日曜やら、休みの日に行うのが普通だろう?それに、君……」
そこまで男は言うと、黙りこんだ。
──そんな格好で。
きっと、そう言いたいのだろうと、月子は恥ずかしさに襲われた。
そもそも、見合いに人力車を使う訳でもなく、徒歩で、それも、普段着以下の格好で出向くなどあり得ない。
赤の他人の、この男ですら、そう言いかけたのだ。
黙った男の言葉を読み取った月子は、恥ずかしさから、つい、ポツリと言っていた。
「……お手伝いに……裏方のお手伝いに呼ばれて……」
「なるほど、準備に人手がいるのか。しかし、その足で、大丈夫なのかい?」
「……は、はい。なんとか、歩けますから……大丈夫です」
月子は、つかなくても良い嘘をついていた。
男は、送ってもらう、だけの人間なのだから、別に、受け流して置けば良い。正直に、西条家から受けた仕打ちを話すこともないだろう。
これ以上、惨めな思いをしたくないと、月子は、つい、男へ適当な事を言っていた。