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第9話

千代の呼び声に、月子は慌て、再び葛籠つづらの底へ手を滑らせる。


そして、古びた封筒を取り出すと、瀬川から与えられた銅貨を入れた。


西条家では、毎年、年始に、家長からお祝儀事で、少額の現金が与えられた。仕事ぶりというべきか、立ち位置によって、金額が変わって来る為、月子に手渡される額は、本当に少ないものだった。


それを、月子はコツコツ貯めていたのだ。何かの時に、幾らかでも手持ちがあれば、心強いと思い……。


しかし、月子も西条家の人間に、違いないのだから本来は、手渡す側に居るはずで、貰う側に居るのは、おかしいのだが……。


家柄の釣り合わない後添えだからと、夫、満亡き後、ひたすら遠慮し、家に尽くしている母の姿を見ていると、連れ子と、赤の他人扱いをされ、女中と共にされていた月子も、その待遇に文句は言えなかった。


こうして、何年分かのお祝儀が貯まったのだ。


古びた巾着に、封筒と渡されている釣り書を入れ、行き先の住所が書かれた紙を懐へ忍ばせると、月子は、ふすまを開けた。


何もない部屋ではあるが、もう、ここには戻れない。


どことなく、寂しさにさいなまれた。


「月子さん!」


千代の苛立ち声がする。


月子は、急いで、廊下を歩む。千代の声がするのは、玄関からだ。


常に、裏口、お勝手から出入りしていた月子は、不思議に思いながらも、そちらへ向かって行った。


微動だにしない、瀬川の脇で、裏口から、月子の下駄を持って来たのだろう、千代は、框に膝をつき、かがんでいる。


「では、お気をつけて」


月子の姿を確認した瀬川は、言って、軽く頭を下げた。


始めての事に、月子は面食らったが、瀬川と千代の手前、挨拶をせねばならないのだろうと思う。


「……お世話に……なりました」


瀬川も千代も、何も言わない所を見ると、これでよかったのだろと、胸を撫で下ろしつつも、どこか、腑に落ちない月子だった。


世話になど、なっていない。でも、養っては、もらった……。一応、母の入院も手配してはくれている。


たが、肝心の、後々の事までは、取り仕切ってもらえていない。


それで……。どうして……。


瀬川と千代の冷えた視線が月子に突き刺さる。


恐ろしいというよりも、身が凍る思いがして、月子は、沸き起こる不満ごと、逃げるように、下駄を履くと、玄関のガラス戸を開けた。


月子の気持ちとは、裏腹に、戸は、ガラガラと小気味良い音を立て、開かれる。


こうして……。月子は、西条家から、外の世界、新しい暮らしへ向けて踏み出した。


木綿の地味な着物に、歯のちびた下駄、そして、古びた巾着を手にした姿は、下働きが、急に入り用になった物を買いに出かけているかのような出で立ちで、見合いに向かう格好どころか、よそ様の家を訪ねるのも躊躇する装いだった。


恥ずかしさに押され、うつむきながら、月子は、西条家の門を出た。


背後で、ガラガラと、玄関の戸が閉じられる。


……追い出された。そう思える音だった。



※※※※※※※



「お嬢様……」


瀬川が、仏壇の前に座り手を合わせている佐紀子へ、そっと声をかけた。


「……ご苦労様。出ていったのね?」


佐紀子の問いに、瀬川は頷くが、すぐに、怪訝な顔をした。


「……心配ないわよ。渡した五銭を使ってしまえば、戻ってくることは出来ない……。あの子にも、それぐらい分かるでしょう。長年、こちらの意向を言い含めてきたのだから……」


「ですが、お嬢様。ここと神田は、徒歩で十分移動出来る距離ですので……」


「そうね、瀬川。ここ茅場町から神田へは、路面電車を遣わなくても、徒歩で行ける……。だから、戸締まりをしっかりしておきなさい。余所者が、仮に舞い戻って来ても、入れないように……」


承知しましたと佐紀子へ答える瀬川の口振りは重かった。


「他に何かあるの?」


佐紀子は、何かを読み取ったのか、瀬川を問い詰める。


「……暫く、投資は控えた方が……」


言いにくそうに、それでも、言わなければならないとばかりに、瀬川は口を開くが、リーンと鳴り響く金属音に邪魔をされる。


佐紀子が、苛立ち紛れに、仏壇のおりんを鳴らしていた。


「……損失が大き過ぎる。そう言いたいのでしょう?」


「はい、今のまま続けておりますと……」


「瀬川!だからこそ、あの親子を追い出して、私が婿を取るのです!あちら様は、銀行家よ!株の取引にもお詳しいはず。どの銘柄を買えば、損失を取り戻せるか、御指南頂けるわ。……失った物を取り返さなければ……。ご先祖様に申し訳がつかない……」


佐紀子は手を合わせ、口惜しそうに念仏を唱え始める。


そんな先祖にすがる佐紀子の姿を見て、瀬川は、何も言わず、部屋を出ていった。


そして……。月子は、当てもなくに近い風情で大路を歩いていた。


西条家のある、日本橋茅場町から目指す神田までは、徒歩でも、四半時──、三十分少しで行き着く。


路面電車を使えば、もっと楽に、早く、着くだろう。


しかし、月子には、片道分の運賃しか渡されていない。


行きで、使ってしまえば、帰りの運賃はどうなる?


では、帰りの事を考えて、行きは歩いて行くべきか?


いや──。


どう考えても、これは、やはり、西条家へ戻ってくるなと言うことだろう……。


嫁に出るのなら、片道分でも、理屈は通る。だが、今日は、見合いなのだ。


内々で、もう話は決まっているのだろうが、あくまでも、顔合わせの機会で、行ったきり、は、さすがに出来ないだろう。


これは、本当に、女中として置いてもらわなければならないのではと、月子は、一人肩を落とす。


そんな、行き場がない失意に襲われている月子の側を、ガタゴトと、路面電車が過ぎ去って行く。


「おーい!待ってくれ!」


中年の男が、叫びながら電車を追って走って来た。


通りの人々は、足を止めて男を見た。


皆、含み笑いながら、この先を見届けようと、立ち止まり、通りには人だかりすら、出来始めている。


男は、なんとか電車に追い付いて、乗降口の手すりに手をかけた。


そのまま、手すりにすがり付くと、男は、引きずられながらも、電車に乗り込もうとしている。


その姿を、往来の人々は大笑いしいる。


明治の時代に乗り合い馬車として始まった公共交通──、路面電車は、その名残りからか、この手の迷惑乗車が後をたたず、乗り遅れたからと、電車を追って飛び乗ろうとする輩が、頻繁に現れていた。


男も、その手の人物らしい。


見物人は益々増え、月子は、人混みをかき分ける様に、進んで行くが、なかなか先へ進めない。


と──。


誰かとぶつかって、月子は、勢い転んでしまった。


「おっと、ごめんよ!」


若い男の声に続き、すすけたハンチング帽を被った姿が駆け抜けて行く。


そして……。気がつけば、月子が持っていたはずの巾着が失くなっていた。


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