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第8話

『その日』は、突然訪れた。


必ずやって来ることと、月子は覚悟していたが、母を送り出してから、三日後というのは余りにも早過ぎる。


母が蔵へ追いやられる以前、与えられていた三畳間で、月子は、目を覚まし、朝の支度の手伝へむかおうとした矢先、部屋のふすまが開かれた。


千代が鬱陶しそうに月子を見ている。


「あっ、今、行こうとしていたところで……」


月子は、支度に出向くのが遅れたのだと思い、千代の機嫌を取った。


「いや、月子さん、あんたの支度をしておくれ」


「……支度ですか?」


だから、その支度の為にと月子は言いかけ、はっと息を飲む。


「……これ、佐紀子お嬢様から。ここに、行ってくれだとさ」


小さな紙切れと、封書が手渡された。


「住所と……、釣り書……だよ」


千代は、それだけ言うと、さっと踵を返す。


「……住所と、釣り書……」


月子は、手渡された物を見ながら、つい、反復していた。


これは……、つまり……。


見合いへ行けと言われているのだと、理解するのにさほど時間は、かからなかった。


住所は、相手の家なのだろう。そして、釣り書、つまり、月子の身元、経歴を記したものを、渡されたということは、そうゆうことだ。


相手に会いに行けと、言われているのだろうが、事は、見合い。縁談話なのだから、仲人なり、家長である佐紀子が共に足を運ぶものではないのか。


疑問よりも、あまりにも、おざなりな仕打ちに、月子は、身動きすら取れなかった。


自分は、どうすれば良いのだろう。


見合い、に、行くべきなのだろうが、たった一人で……。


まるで、女中奉公ではないかと、月子は思うが、ああ、そうかと、自分の縁談とやらの真意に気がついた。


つまり、相手は、結婚相手ではなく、働き手が欲しいだけなのだ。


訳ありとは、そうゆうことか。


ならば、女中を雇えば良いのにと、月子は思うが、勘当の二文字を思い出す。


確か、そのようなことを野口のおばが言っていた。


佐紀子も、それでは結納金など用意できまいと言っていた。


女中の一人も雇えないのだろうか。それで、妻をめとって、やっていけるのだろうか。


いや、その妻というのが、自分なのだと、月子は、ゾッとする。


正直なところ、母の、これからの入院代金を、嫁ぎ先に頼れまいかと考えていた。


それで、多少の仕打ちを受けたとしても、たえられる。と、月子は

思っていたのだが……。


どうも、調子良く行きそうではないと、渡された物を見て、月子は、ただただ、困惑するばかりだった。


しかし、ここには、いられない。


もう、話は先方とついているはず。何しろ、月子の釣り書まで、用意されているのだから。


出向く準備をしなければならないのだろうと、月子は諦めのような気重さに陥りながら、ひとまず、渡された物を、畳んである布団の上に置いた。


この部屋には、押入れは無い。もちろん、物置棚の様な物もない。


がらんどうの小さな部屋には、月子が使っている布団、そして、身支度に必要な、手鏡や櫛が、使い古しの葛籠の中に、着替えと共に入っている。


文字通り質素な部屋だった。


月子は、葛籠の蓋を開け、正月用の晴れ着を底から取り出した。


といっても、袖をさほど通していない、木綿の着物で、普段着と変わりがない物だ。


これでは、本当に女中奉公に出ると等しい。


そもそも、こんな格好で、見合いの席へ出向いても良いのだろうか。でも、これしかないのだから、どうしようもない。


礼儀知らずと、先方に断られたなら、それこそ、女中として置いてもらおう。そう自分に言い聞かせながら、月子は、身支度に取りかかった。


「構いませんか?」


ふすまの向こうから声がする。


西条家の表向きを取り仕切る、瀬川のものだ。


月子の返事に、すっと、ふすまが開いて、確かに、瀬川が現れた。


長年、家長と共に西条家の表向きを取り仕切ってきた老人は、誰に対しても、折り目正しく接する。


が、それが逆に、威厳を増していた。


月子も、この瀬川は苦手だった。


その表側の顔が、何故、この裏側にいるのか。未だかつて、月子の部屋へなど、瀬川は訪ねて来たことはない。


(ひょっとしたら……。)


瀬川が、月英と共に見合いの席へ同伴するのではなかろうか。


野口のおばや、佐紀子より、一番適した人物かもしれない。


一言挨拶しようかと思った矢先、月子へ瀬川が、何かを差し出した。


「先様への足代です。こちらをお使いくださいとのことで……」


月子の手に、銅貨が握らされた。


見ると、一銭銅貨が五枚ある。


「……神田方面と聞き及びましたので。路面電車をお使いになりますよう……」


それだけ言うと、瀬川も踵を返した。


──神田。五銭。


月子の頭の中に、路面電車の路線図が一瞬浮かびあがったが、同時に、瀬川が、同伴者ではないのなら、何のために月子の元へ来たのだろうと、不思議に思う。


聞き及んだお使いください。


と、いかにも、誰かに命じられた瀬川の口振りに、月子は、すぐさま佐紀子の影を思い浮かべた。


そして。握らされた五枚の銅貨。


それは電車の運賃。なのだろうけれど、片道分の料金しかない。


まだ、月子の母が西条家へ、後添いとして入る前。


月子は、義父、満に連れられ、良く神田周辺へ出かけた。


大学や、学校が多数あるからか、安価なカフェや洋食屋、映画館、演芸場などが立ち並び、賑わいを見せている街は、銀座より、敷居が低くいと、庶民の憩いの場になっていた。


母は、うどん屋の切り盛りで大変だろうと、満が、月子の子守りを買って出て、神田の街へ遊びに連れて行ってくれていたのだ。


だから、月子も多少土地勘はあり、路面電車の代金位は知っていたのだが……。


手のひらに乗る、銅貨の枚数に、月子の体は、固まった。


片道料金ということは……。つまり、佐紀子は、ここへは戻って来るなと、伝えている。


しかし、今日は、見合いのはず。


互いに顔見せするだけの日であって、嫁ぐ日ではない。


どうしても、佐紀子の意図が理解できず、いや、理解したくない月子の足は震えた。


とうとう、行き場がなくなってしまうのか。


西条家と、離れる事には異存はない。しかし、たとえ、どんな相手だろうと、見合いの日に、そのまま居座る事などできる訳もない。


「ちょいと!月子さん!遅れちまうよ!」


千代の呼び声がする。


出かける、いや、出て行かなくていけないのだと思うと、じんわり涙がにじんで来た。


西条家に、思い入れが有るわけではない。


こんな、理不尽なやり方を、最後まで通す西条家、いや、佐紀子が憎かった。


そんな非常識な仕打ちにも、逆らえず、従っている自身の弱さに、月子は、涙した。

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