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第7話

母と水入らずの食事も早々に終わらせ、月子は入院の支度にかかった。


一緒に食べるのは、最後と思ってか、母は何時もより無理をして月子が作った粥を、しっかり食べてくれた。


食欲がないのが、月子にも分かるほど、母は、痩せこけて、を通り越し、やつれ果てている。


入院が、今日と分かっていたならば、せめて、卵粥にすればよかったと、萎びた青菜の粥を用意したのを後悔しつつ、粥を食べてくれた母の姿に、月子は感謝した。


無理をしてでも、食べられるということは、まだ、体力が残っているということ。ちゃんと療養すれば、母の具合は回復するはず。


そう信じ、月子は、荷物をまとめて、風呂敷に包んだ。


母は、柱にもたれかかり座っている。


もう会えないことはないだろうが、一緒にはいられなくなる。そう思ってか、はたまた、月子に縁談が持ち上がっていることを心配してか、姿を目に焼き付けようとばかりに、月子をじっと見ている。


そんな、視線を感じつつも、月子は、何が必要か母に確かめながら、テキパキと動いた。


佐紀子のことだ、待ってはくれない。


いつ、迎えが来るか分からない。


ゆっくりと、話すこともできず、月子は、寂しさに襲われながら、母が困らないよう、入念に荷物の準備をした。


そして、干してあった、着物を取り込むと、母の身支度へ移った。


少し、日に陰りが見えた。寒かろうと、月子は、蔵の扉を閉めようとしたが、母が、止めた。


最後の最後まで、月子に病をうつしていけないと、気を使っているようだった。


開けっ放しの入り口から、少し冷えた空気が流れ込んで来る。月子ですら、肌寒さを感じているのに、それが、母ならと思っていると、大丈夫だと、にっこり母は、笑い、それよりも……と、月子へ言った。


「……どうしたんだい?胸元が、濡れているけど……」


「あっ、これは……」


野口のおばに、茶をかけられと、言えない月子は、青菜を洗っている時、水が散ったのだと誤魔化した。


確かに、言われる様、胸元は、まだ濡れている。だから、余計に肌寒さを感じたのだろうと月子は、思いつつ、母が居なくなったら、一人でこのような仕打ちにも、耐えないといけないのだと、ふと、心細くなる。


母には、起こった事は逐一話していなかった。が、母と一緒にいるだけで、苛立ちや、悔しさや、諸々の重い気分は、消え失せたのだ。


しかし、これからは……。


そして、縁談話も進められる。一体、月子自身は、いつまで西条の家に居られるのだろう。


そんなことを思いつつ、母の襟ぐりに手拭いを掛け、長く、白髪混じりの傷みきった髪へ、櫛を通した。


「……母さん、お見舞いにいくからね」


ふと、呟いた月子に、無理しなくていいと、母は、答える。


月子へ気を使っている母の返事は、少し堪えたが、月子は、黙って頷いた。


髪をとかし終え、丁寧に編み込み、一つにまとめると、義父から送られたという着物を月子は、手に取る。


この着替えを手伝えば、母との別れが待っているのだと思うと、持つ着物を、月子は、ぎゅっと掴んでいた。


こうして、母の身支度を終わらせて、母が横になっていた布団を畳んだ。


全てを片付け、母と静かに迎えを待っていると、案の定、小さな話し声と草履の音が聞こえて来た。


佐紀子は、言ったことは守る。そして、それは、即、実行される。


「……迎えのようだね、じゃあ、母さんは病院へ行くね」


心配させまいとして、朗らかに言う母へ、月子も、にこりと笑って見せた。


「起きられるようですね」


少し冷たげで、芯のある女性の声がした。


月子の母が入院する、西条家かかりつけ、佐久間医院の看護婦が蔵の中を覗いている。


いつもなら、白衣の制服を着て、助手事で往診に着いてくる彼女は、着物姿だった。


側には、西条家の下男が立っている。


「……目立たないようにと、お嬢様のお言いつけですので。裏口に人力車を待たせております」


病人を運び出す、という作業が、佐紀子には世間体が悪いと思われたのだろう。


そう理解した月子親子は、小さく頷いた。


下男に背負われる母。荷物を抱える看護婦。その後ろを月子は着いて行く。


裏口からという、どこか寂しい、いや完全に疎まれている、母の出発に、月子は、肩を落としつつ、黙って着いて行った。


下男に背負われている母は、元気だった頃より、ひとまわりも、ふたまわりも小さく見える。


母のやつれ具合に、月子は、愕然としつつ、自分の不甲斐なさを噛み締める。


裏口──、裏木戸が見えてきた。


「月子さん、一度、病院へいらしてください。当医院は、専門病院ではありませんから、一時的にしかお母様を預かることはできません。出来れば、それなりの場所へ転院すべきだと、先生も仰っております。今後のことを、相談できますか?」


母を背負った下男が、木戸を潜って、表へ出たとたん、看護婦が、事務的に月子へ言った。


「……一時的……」


どう答えるべきか、言葉に詰まった月子に、看護婦は、急ぎはしないと言いつつも、面倒そうに眉をしかめ、さっさと、表へ出て行った。


そうして、人力車に乗り込み、月子の母を支えるように座ると、車夫へ佐久間病院の場所を告げる。


人力車は、ゆっくりと動きだし、役目が終わった下男は、伸びをして、月子をちらりと見た。


早く、屋敷へ戻れと言いたいらしい。木戸の戸締まりをしたがっているのは、月子にもわかった。


見送りをしっかりしたかったが、迷惑そうな視線に負けて、月子は、下男に従った。


カラカラと車輪の音がする。


たまらず、月子が振り向いた時には、人力車は、かなり先に行っており、当然、母の姿は伺えなかった。


ちっ、と、下男が、鬱陶しそうに舌打ちし、月子を急かす。


自分が、戸締まりをすると、言って残れば良かったと思いつつも、入院は、ひとまずだと、言われた事に動揺してた月子には、そこまで気がまわらなかったのだ。


つい、言いなりになってしまったがために……母と、別れの言葉も交わせなかった。


いや、病院へ、行けば良い。来てくれと言われているのだから、母のも、すぐ会える。


だが……。その後は……。


裏木戸を潜り、呆然と立ち尽くす月子の後ろで、かたんと、戸締まりをする音がした。


すたすたと、下男が去っていく。


これから、どうすれば良いのだろう。困惑しきる月子に、佐紀子の厳しい顔つきと、突き放すような言葉が重くのし掛かって来る。


その佐紀子はというと……。


縁側に立ち、母屋から、裏庭づたいに裏口へ向かう月子親子の姿を眺めていた。


隣には、西条家の資金繰りを手配する役目、佐紀子を補佐する家令の、瀬川がいる。


父、満の秘書としても、活躍していた、もう還暦を過ぎているだろう、老人は、ふうと、息を吐き言った。


「佐紀子お嬢様、これで、一つ片付きましたな」


「ええ、瀬川、入院の手配ご苦労様でした。後は……あの子の縁組をどうにかしないと……」


「野口様へ、再度お願い致しておきます」


「ええ、西条家から、早く厄介者を追い出さなければ。もし、居座られたら、それこそ、ご先祖様へ面目が立たないわ……」


佐紀子は、ぎゅっと拳を握り、苛立ちを露にする。


──母と歯切れの悪い別れ方をしてしまった月子は、つい、蔵へ向かっていた。


入り口の扉を開けたままにしていたのも気になったが、何より、一番落ち着く場所だったからだ。


母が居ないと分かっていても、蔵へ行けば、なんとかなるような安堵感もあった。それに、佐紀子含め、屋敷の者達と顔を合わすことがない。


幸先の不安があるだけに、母の面影にすがるかのよう、月子の足は動いていた。


ところが。


蔵から、下男が何人か、荷物を持って出て来た。


各々、葛籠を掲げ持ち、ひとまず、入口の脇へ置いて行く。


「ああ、使っていたものは、全部処分しろって、佐紀子お嬢様が……」


水が入ったバケツを重そうに運びながら、女中頭の千代が、立ち尽くす月子へ言った。


「これから、水拭きするから、ぼっと、突っ立てるんじゃないよ」


母が、使っていたものは、全て処分しろ、そして、使われていた場所は、水拭きしろ……。


そのあと、商売や屋敷のあれこれを記した帳簿を運び込め。


それが、佐紀子の命だと千代は言う。


月子親子が使っていた為に、本来蔵へ仕舞うはずの古い帳簿類は、屋敷の屋根裏に仕舞っているようで、これを機に、あるべき所へ戻すようにということらしい。


それは、確かに、もっともな話ではあるが……。


「あ、あの、その葛籠は!」


母が、月子へと譲ってくれた江戸小紋の着物が入った葛籠を、下男が持ち上げていた。


「そ、それは、その中身は、母の着物で……」


「着物?だったら、さっさと処分しちまわねぇと。身につけてたんだろ?病がうつっちまう」


下男は、ずけずけ言ってくれた。


そうゆうことか、と、月子は、思う。母の持ち物を処分するというのは、皆、病がうつるかもしれないと、恐れているからだ。


いや、佐紀子が、そう言った……のだろう……。


確かに世の中の人間は、うつる、うつると、執拗にいやな顔をする。


それを言われてしまうと、月子には、何も言い返せない。


仕方ないと、諦めるべきなのだろうが、母の思い出全てを奪われるようで、この世から、母が居なくなってしまうようで、到底、耐えられる事ではなかった。


「さあ、始めるよ!」


夕飯の支度もあるのだからと、千代が、月子を急かした。


雑巾を渡され、月子は、何も言えないまま、従うしかなかった。


月子を使えと……、佐紀子が、千代へ命じたのだろう。


全てにおいて、佐紀子の影が見え隠れする事も、月子には、耐えられなかった。


悔しさを誤魔化そうと、月子は、床に這いつくばって、雑巾掛けをする。


惨めな気持ちに押し潰されながら、佐紀子、いや、西条家の底力というべきものを見せつけられ、手も足も出ない自分に、月子は、苛立ちを覚えた。


次は、自分。追い出されるなら……いっそ、このまま、出て行こうか。


訳ありの、住む世界が異なる男爵の元へなど、嫁いだところで、今より苦しい思いをしなければならないはずだ……。


でも……。


看護婦が言っていた、母のこれからの事を月子は思い出す。


病院へ出向けば、転院という名目で、母を追い出す話になるだろう。ひょっとして、佐紀子は、そこまで仕掛けて来たのか……?


月子の中で、佐紀子と西条家への疑心が蠢いた。


余計な事は考えまい。


きっと、どうにかなる。


ただし……、訳ありの縁談話を受ければ……。


今のところ、すがれるものと言えば、その素性の知れない、男爵しかいないのかも……。


自分一人では、どうにもならない、置かれている現実に、月子は泣きそうになりながら、床を拭いた。

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