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第6話

裏方の使用人達が、食事を済ませ、持ち場へ戻る頃を見計らい、

月子は、お勝手から台所へ入った。


各々の箱膳へ、茶碗と箸を仕舞い、女中達が水屋棚の中へ箱膳を片付けると、散り散りになった。


月子は、母親専用の小さな鍋に、米を入れ、取り置いてもらっていた、傷んでいるからと捨てるはずの菜っ葉を刻み、粥を作り始める。


月子親子の食器は、箱膳に入れて蔵にある。食器だけではない、親子が手にするものは、全て蔵に置いてある。


ただ、小鍋と木杓子だけは、台所の隅に、なんとか置かさせてもらえたが、すべて、病がうつるのではという心配からの事だった。


しゅうしゅうと音を立て、ほんのり蒸気をあげる鍋を見て、月子は、仕上がる頃だと判断した。


西条家の台所は、まだ、かまどを使っている。


ガスが普及していたが、女中達が、昔ながらの、かまどの方が使い勝手が良いと言い張り、かまどを、ガス台に入れ換えるなど、余計な費用はかけたくないと考える佐紀子も、かまどを使い続けることに異存はなかった。


色々と、新しい文化が浸透しているはずなのに、西条家では、若い佐紀子を筆頭に、何かこだわりがあるのか、変化というものを嫌っているように見えた。


……そして。


月子親子が、西条の家へ入るという新たなことも、大変な、変化だったらしい。


それを、満が、家長として押しきったのだが、その反発が、今、月子親子へ降りかかって来ている。


月子の母が、病を患っているから、ということに見せかけているだけで、どのみち、二人は、つま弾きにされる立場だったのだ。


こうして、気兼ねしながら、台所に立つたび、月子は、悔しくあるが、どこか諦めからか、ポカリと胸に穴が開いたような気持ちになっていた。


落ち込みとも、いじけているとも言えない、鍋が発する、軽やかな蒸気の音とは相反した、重い気持ちに支配され、母の食事の用意と称して、親子二人分の粥を作る毎日も終わりを迎えるのだと月子は、気がついた。


さて、母へは、どの様に告げればよいのだろう。


火から、鍋を下ろしつつ、自分に縁談が持ち上がったことにされ、結局、追い出されるのだとは、流石に言えない。


その縁談も、かなり、訳ありの様であるし、なにより、月子へ、という話でもない。


野口の家が、佐紀子の為にと、無理やり押し込む話なのだから。


前掛けで、鍋の取っ手を掴み、月子は、母の元へ向かうが、胸の内は、複雑だった。


どうなるかわからない話に従わされて、ここを出ていくというのが、正しい。


それを、母へ、正直に言う訳にもいかず……。


鍋の中身をこぼさない様、気を付けながら、月子は、モヤモヤとした気分のまま、母が待つ、蔵へと向かった。


が。


お勝手から出て、裏庭へ出たとたん、月子は、異変を感じた。


蔵が見える。


それは、いつも通りだ。


しかし、閉まっているはずの、外扉、観音開きの漆喰扉が開かれていた。


母の体力を思うと、自ら外へ出ることは不可能。つまり、誰かが、蔵へやって来たことになる。


一体、誰が……。


月子は、不思議に思いながら、粥をこぼさない様、そろりそろりと慎重に歩んだ。


蔵の入り口に立ち、月子は驚く。


臥せっているはずの母が、起き上がり、荷物をまとめていたからだ。


風呂敷に、着替えや、日常生活で必要になる物を包んでいた。


「母さん!」


月子の呼びかけに、母は振り向いた。


そして、優しく微笑むと、一言、「おめでとう」と、言った。


月子は、悟る。


佐紀子だ。


佐紀子が、早速動いたのだ。


案の定──。


「佐紀子さんのはからいでね、母さん、佐久間先生の所へ、入院することになったのよ。しばらく月子とは離れてしまうけれど……」


そこまで言うと、母は、床に手をつき、コンコンと咳き込んだ。


「母さん!無理しないで!」


支度は、自分がすると言いかける月子へ、母は、キツイ口調で言い放つ。


「……月子、離れて!離れなさい!お前にまでうつってしまう!」


咳き込みながら、母は、月子の身を案じて近寄らせようとはしない。


月子は、かろうじて頷くと、手に持っている粥入りの小鍋を、蔵の角、二人の箱膳を仕舞っている脇へ置き、自身もそっと座った。


蔵の扉は開いている。外から風が入り込んで来ているから、換気はちゃんとできている。母が多少咳き込んでも、これだけ離れていれば、月子に、もしもしのことは、起こり得ないはず。


ただ、良くわからないのが、胸の病。本来は、蔵の外へ一旦出た方が良いのだろうけれど……。


小さくではあるが、苦しげに咳き込んでいる母を見捨てる様な気がして、月子は、離れた場所に控えていた。


本当は、母の背をさすってあげたいと、月子は思うが、今の母では、到底、近寄ることを許すはずがない。


口惜し思いをしながら、月子は、母が落ち着くのをじっと待った。


暫くして、なんとか、咳がおさまった母は、また、ポツリと月子へ言った。


「佐紀子さんから、聞いたよ。縁談話が、あるんだってね?良かった。本当におめでとう。これで、月子も、幸せになれるね。母さんの世話ばかりで……、月子は、自分の事が何もできなかったもの……」


やはり、佐紀子が、やって来て、事情を母へ告げたようだった。


そして、取り決め通り、母を病院へかけてくれる。


佐紀子は、確かに、言ったことは守る。だが、余りにも急ではなかろうか。


でも、これで母は病院へかかることができる。良いことなのだと、月子は、ほっとしたが、指先がどこか冷えるというべきなのか……、少し、寂しさを感じつつも、さて、佐紀子は、どこまで、母へ事情を語ったのだろうと、一抹の不安も抱いていた。


母の口振りから、西条家から無一文で追い出される、という事情をわかっているようには思えなかった。


佐紀子のことだ。月子へ縁談が持ち上がり、世話をする人間がいなくなるから、病院へ……と、母を丸め込んだのだろう。


言ったことは、確かに守る佐紀子ではあるが、言い分は常に、自身の立場を守るもので、相手によって、コロコロ変わる。


流石に、母へは、きつくあたれなかったのか、はたまた、蔵へ自ら足を運んだは良いが、長居したくなかったのか。用件だけ、つまり、本当の所は、省略したのだろう。


月子は、母へどう答えれば、いや、佐紀子が蔵へ来て何を言ったのか尋ねるべきか、迷いに迷った。


母は、なんとか息を調え、病院から迎えが来るからと、どこか、嬉しそうに、支度を続けようとしている。


「……母さん?迎えって?」


「ええ、部屋が空きそうだから、ってね。これから入院するの……急な話だけど。月子、お前も色々と準備があるでしょ?母さんの世話ばかりしてたら、せっかくのお話が流れてしまうわ」


母は、苦しげではあるが、にこりと笑った。


やはり……。


佐紀子は、本当の事、肝心な事を言っていない。仮に何故言わなかったと、月子が責めよっても、佐紀子は、要点は言っている、何がいけないとばかりに、とぼけるのだろう。


娘の縁談話を持ち出せば、母親ならば、すんなりと、病院への入院、つまり、西条家から出て行く事を受け入れる。


月子は、親心というものを利用して、たばかった佐紀子を恨めしく思った。


「か、母さん、お粥……食べよう」


佐紀子のやり方に、月子は我慢ならなかったが、久しぶりに見た朗らかな母の姿に、このままでも良いのではないか、真実を知らない方が、母を傷つけることもないのではないかと、心中は、揺らぎに揺らぐ。


すぐに、本当の事が母に分かってしまうのも、目に見えていたが、冷めかけとはいえ、まだ、柔らかな湯気を上げている粥を見て、月子は、嘘を突き通す覚悟を決めた。


恐らく、母との食事はこれが最後になるだろう。せめて、何の心配もさせず和やかに、母を送り出したい。


そう思い、月子も、目一杯の笑顔を母へ向けた。


「……急だから、月子に何も渡してあげれないわ。お嫁に行くというのに……」


母は、奥に仕舞いこんである葛篭つづらに目をやった。


「月子、出してもらえる?」


うん、と、答えると月子は、母の元へ行き、少し埃をかぶった葛籠を取り出した。


「……母さんね、譲れる物がないから……。少し地味だけど、この着物を持ってお行き……」


義父、満が母へ送った着物だとか。西条の家へ入る前に、一張羅を、何枚か用意してくれたのだとか。


「後添えだから、それも、良家の人間じゃないしね。旦那様が、母さんが、恥をかかないように用意してくれたのよ」


しかし、裏方仕事に追われる事になる母は、それらに袖を通すことはなかった。


「母さん!この大島。風に当てるね!」


「月子?」


突然、弾けた月子を、母は、不思議そうに見た。


「だって、病院へ、寝巻き姿のまま行く訳にはいかないでしょ?まだ、時間があるはずだから……この大島を着ていくといいよ!だから、風に通して少しでも湿気を取るね」


泥染めの、高級そうな大島紬の着物は、少し、カビ臭かった。風に通せば、いくらかましになるだろうと、月子は、葛籠から取り出すと、急いで蔵の外へ出て、脇に作られた、月子親子の洗い物干場へ駆け出した。


棹を下ろし、着物の袖を通して吊り下げる。


少しではあるが、日に照らされ、着物は、風になびいている。


これで、いくらかは、匂いも湿っぽさも消えるだろう。


月子は、母の元へ戻ると、粥を食べよう、椀によそうと言って食事の支度を始めた。


母は、そうねと、一緒に食べるのは最後だと、少し寂しげにそれでも、名一杯笑って見せる。


別れ、とはいえ、ただの入院。そして、月子には、縁談話が持ち上がっている。悲しむ話ではないと、言いたいようだ。


「ああ、そうだ!」


母は、葛籠の中身を確かめながら、月子を呼んだ。


「この着物……月子には、地味だけど、お見合いの席で、着るといいよ……」


母にも分かっているようだ。佐紀子が、わざわざ月子のために、衣装を用意しないことを。


そして、裏方仕事しかしていない月子が、表に出られる着物など持ち合わせていないことも。


母が、広げて見せたのは、若草色に、小さな点が抜かれている、大小霰だいしょうあられと呼ばれる柄の江戸小紋だった。


「これなら、格もあるから、お見合いでも……」


場違いには、かかろうじてならない。けれど、見合いの席には、少し外れたものだと、母にも分かっているようで言葉を濁す。


「ありがとう。母さん。見合いといっても……格式張ったものじゃなさそうだし、普通のお家の方のようだし……」


月子も、とっさに、誤魔化す。


まさか、男爵家へ嫁がされようとしているとは。それも、かなり訳ありの相手のようだとは、さすがに言えなかった。

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