ばしゃりと、月子の顔へ、茶が浴びせかけられた。
いきなりのことに、あっ、と、驚きの声をあげた月子だったが、すぐに頭を下げ、
「も、申し訳ございません。野口のおば様……」
と、謝った。
「お前に、おば様呼びわりされる筋合いはないわっ!!」
客間の上座に居座る、五十絡みの丸髷を結う女は、ばしんと畳を叩いて、苛立ちを見せる。
その音に、月子は縮み上がった。
人肌よりも熱い茶を浴びせられた頬が、ひりひりする。着物の袷も濡れてしまい、正直不快だった。しかし、月子には、謝る事しか許されていない。
「どうせ、口先だけなんだろう!謝っておけばなんとかなると、思っているのだろう!!」
「……そんなことは……」
「お黙りっ!!お前達のせいで、佐紀子の縁談は破談になりそうなんだよっ!!」
お前達と言われ、月子は、黙るしかなかった。
──ここ西条家は、元々山林を持ち、林業を営む家だ。
何代か前の当主が、気まぐれで、帝都の材木問屋を買い取り商いを始めた所、みるみる頭角を表して、いくばくか名前が通った材木商へと成り上がった。
商品となる材木を、自ら所有している為、他の店より有利に商えたからだ。
こうして、材木だけに飽きたらず、投資などを行い、今では、帝都でも有数の資産家となっている。
そんな西条家へ、月子の母が後添えとして迎えられた。
当主である、相手の西条満は、実子で一人娘、佐紀子共々、連れ子である月子のことも、可愛がってくれた。
母は、そんな夫、満に気兼ねしてか、屋敷の裏方はもちろんのこと、満の仕事がはかどるように、隅々にまで気を配っていた。
月子の父が亡くなってから、小さなうどん屋を営んで、女でひとつで月子を育てていた母は、働くことには慣れていた。が、やはり、勝手が違うのか、気苦労の毎日で、ついに、倒れてしまう。
医者の診断は、胸の病。つまり、結核だった。
時は大正──。死亡率の高さから、亡国病と呼ばれていた病、そして、人に感染することから、患者は、いわれのない差別を受けていた時世。
当然、西条家でも、母への風当たりは強くなり、満の采配により、月子が、母の面倒を看るということで、かろうじて、月子親子は、屋敷の離れに住めることになる。
以来、屋敷の者達は、病気がうつると月子まで、避けるようになった。
そんな時、頼りの満が倒れてしまう。
そして、あっけなく息を引き取ってしまった。
「だから、私は反対したんだよ。胸の病なんぞに、かかった女を、よりにもよって、離れに住まわすなんて。さっさと、あんな女なんぞ、追い出しておけば……ああ、違う!初めから、西条の家に入れなきゃ良かったんだ!そうすれば、満だって、生きていただろうに!」
お前達のせいだと言いたげに、西条家に何事かあれば、口を出してくる満の姉──、野口のおばは、月子を睨み付けてきた。
「……よりにもよって!」
野口のおばは、怒りから、顔を歪めきる。ギリギリと歯軋りの音が聞こえそうなそれは、月子にとって居心地の悪いものだった。
おばが言わんとする事はわかっていた。
この怒りは、数日前の日曜日、月子が医者を呼んでしまった事が原因なのだ。
母の熱が下がらなかった。おまけに酷く咳き込んだ。
満亡き後、親子は、離れから、庭の隅にある蔵に移され、閉じ込められるに等しい状態で住まわされている。
離れとはいえ、母屋に続く部屋に、病人は置けないという理由からだった。
暗く、風通しが悪い、埃っぽい蔵では、当然、母の病は悪化していく。
そして、母は、今までにない高熱と咳を発症した。
気が動転した月子は、医者を呼んで欲しいと、女中頭に頼み込む。
そんな、勝手なことはできる、できないと、裏方で、言い争いに発展したのが、いけなかった。
騒ぎが、表へ漏れてしまったのだ。
その日、屋敷の表側では、義理の姉、佐紀子の見合いが行われていた。
満亡き後、実子の佐紀子が跡を継ぐことになるのだが、いかんせん、女。
そこで、婿を取ろうと、満の喪が開けた今を見計らい、見合い話が持ち込まれていた。まさに、その当日のこと。
「めでたい席で、医者だなんだと!お陰で、西条の家に、病人がいると分かってしまった!それも、胸を患っているとっ!!」
野口のおばが、月子へ、苛立ちをぶつけてくる。
相手の手前、使用人が調子を崩したことにして、医者を呼んだが、月子の母の具合はあまり芳しいものではなかった。医者は、茅ヶ崎にある、専門の
とにかく、佐紀子の見合い中に騒ぎを起こしてしまったのが不味かった。
以来、親子の食事の量は減らされ、月子には、力仕事ばかりが与えられ、と、嫌がらせが増えた。
西条家から出ていくように仕向けられているのだと、月子も感じていた。
皆で追い出したと、世間に分かってしまえば、これまた、都合が悪い。月子親子が、自ら出ていったなら、止めたにも関わらず、などと良い顔を売れる。
ここには、これ以上居られない。しかし、出ていこうにも、寝たきりの母を抱えていては……。何より、暮らし向きに必要な、金銭の問題もある。
せめて、もう少し、母の容態が落ち着いて、動かせられるようになるまで……。そうしたら、母を療養所で養生させ、住み込みの女中か何か仕事を見つけよう。
月子は、自分に言い聞かせながら、仕向けられる仕打ちに耐えていた。
そして、今、とどめとばかりに、野口のおばが、怒鳴りこんで来ている──。
「おば様、いらしてたの……」
障子の向こう側、廊下から可憐な声が流れて来た。
すうっと、障子が開き、月子の義理の姉、佐紀子が姿を見せる。