目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第7章 ユーリ――樹洞の泉(前編)

 フィシスが白い衣をなびかせながら大神殿を行くと、左右の人々はいっせいに目を伏せる。すぐ後ろにいる俺のこともその場ではじろじろ見ないが、通りすぎてしまったあとは、彼らの視線が背中に突き刺さるのを感じる。


 最初のうちは、俺の年が行きすぎているせいだと思っていた。他の神官が連れ歩いている侍者はみな、神官修習生の誓いを立てた子供たちで、俺よりずっと年下だから。

 俺の服が他の侍者とちがうのもそのせいだと思っていた。神官の侍者が着るのは裾や襟に緑色のふちどりをつけた白い胴着だが、俺のものだけは背中に緑の十字が刺繍されている。


 最初、この服は誰かのお古だと思いこんでいた。何しろ俺は誓いなんて立てていない。それどころか、昨日ジェンスに話した通り、準備さえできたらライオネラを出て帝都サウロへ向かうつもりなのだ。


「どうした」

 俺の足が遅いと思ったのか、フィシスがふりむいた。俺はあわててフィシスの隣へ行き、肩越しに自分の背中を指さした。

「この十字には何の意味があるんだ?」

 フィシスは怪訝な顔をした。

「なぜ聞く」

「……このせいで俺は特別だと思われているみたいだから」

 フィシスの眉がひそめられたが、一瞬のことだった。すぐに納得がいったようにうなずく。


「わたしはずっと侍者を選ばなかった。みながおまえを珍しがるのはそのせいだ」

「緑十字をつけるのはあんたの侍者だけだってこと?」

「いや、欠翼の神官の侍者が緑十字をつける。今はわたしだけだ」

「カケヨク? それは神官の位みたいなやつ?」

 するといきなりフィシスの表情が消えた。紫の眸に突き刺すように睨みつけられて、俺は思わず息をのむ。


「……おまえは誓いを立てていなかったな」

 フィシスの唇がかすかに上がって、視線がやわらいだ。

「知りたければ修習生になることだ」

「べつに、知りたいわけじゃない」

「そうか?」


 その手にはのらないと俺はそっぽを向く。秘密を知ったら逃げられなくなる――いや、逃げられなくさせられる(傍点)かもしれない。村にいたときと同じことになるのはごめんだ。





 はるか上にある緑の梢から鳥の群れが舞い降り、幹にそって飛んでいく。ぶあつい苔のあいだから丸い耳の動物が顔をつきだしてあたりをうかがい、羽音にさっと首をひっこめた。


「ユーリ、早く来なさい」


 フィシスが俺を呼んだが、俺は足を踏み出すのをためらっていた。フィシスが立っている螺旋階段は白く細い木で作られていて、風に揺られているように見える。それは俺がいる場所からは全体を見渡すこともできない巨木――世界樹の幹にそって下へ続いている。


 俺は片手で手すりをつかみ、そっと一歩を踏み出した。とたんに足もとがぶわんと揺れた。

 やっぱり。足もとは素通しで、フィシスは俺の真下あたりにいる。螺旋階段とはいっても、これはまるで吊り梯子だ。


 今日まで、フィシスは祈りの時間の合間に〈樹領〉のあちこちへ俺を連れていった。辺境からきた俺に〈根〉の神殿がどれほど豊かなのかを見せつけるみたいに。

 ヘルレアサの丘の北側は南側のような崖ではなく、ライオネラの北の境界を作るティルコ河の岸辺までなだらかな傾斜が続いている。地平線のあたりは青い水をたたえた大河が流れ、水門から引かれた水が果樹園や段々畑をうるおしていた。


 フィシスは俺にティルコ河を見せ、工房街と接する西の端にも連れて行った。でもここへ来たのは初めてだ。大神殿にもっとも近い、世界樹そのものに接しているこの場所には。

 俺は両手で手すりにしがみついた。


「どうした、いつもの威勢のよさは」

 下からフィシスの声がきこえ、みると顔をしかめている。

「まさかと思うが、怖いのか?」

「あ、あんたは怖くないのかよ。こんなに揺れるのに」

「馬鹿なことを。われわれは世界樹に抱かれているも同然なのだ。ここはこの世でもっとも安心できる場所のひとつだぞ」


 ここで安心できる? 神官っていうのは頭がおかしいんじゃないか。

 俺は内心そう毒づき、それからフィシスの頭が特におかしいのかもしれないと考え直したが、だからといって何がどうなるわけでもない。


 そうはいっても、自分でも不思議なほど、フィシスに愚か者とは思われたくなかった。どうしてなんだろう。俺はシャロヴィで何年ものあいだ、周囲から馬鹿でのろまな人間だと思われるようふるまっていたのに。

 フィシスの紫の目にみつめられると、そんな偽装はすぐに見抜かれるような気がするからだろうか?


 俺は息を吐いて立ち上がり、もう一度息を吸うと、風にみしみしと揺れる階段の上をフィシスのところまで駆け下りた。


「来たぜ」

「何の問題もなかったな」

 眉ひとつ動かさずにフィシスがいって、斜め上を指さす。

「まったく、おまえときたら。あそこにいる巡礼たちを見なさい」


 世界樹はヘルレアサの丘の北側にそびえている。大神殿の奥に広がる石のテラスのひとつは巡礼に解放されていて、そのつきあたりまでいけば、苔むした世界樹の幹に直接さわることができる。

 一日に数回行われる祈りの時間には、大勢の巡礼たちがひざまずいて神官の祈りに聞き入ったあと、木の幹に手のひらをぴたりとつけて加護を得ようとする。巡礼の手が触れたところは苔も落ちてつるつるになっているが、それは巨大な幹のごく一部でしかないから、樹にとってはなんてこともないのかもしれない。


 巡礼たちはそのあと、順番にテラスの横からのびる石の階段をのぼっていく。その先には〈祈り台〉と呼ばれるもっと狭いテラスがあり、そこからは丘の北側に広がる〈樹領〉――巡礼が立ち入れない神殿の領地を眺めることができる。

 祈り台に上がるには余分な寄進が必要だが、せっかくここまで来たのだからと、寄進せずに帰る巡礼はほとんどいない。


「彼らはおまえが羨ましくてしかたがないだろうに」

 俺はちょっとびっくりした。本気でそんなこといってるのか?

「まさか。そんなわけない」

「なぜそう思う」

「だって……あそこにはすごい金持ちや、高貴な生まれの人たちもいるだろう」


 祈り台の順番を待っている巡礼の中にはとても贅沢な身なりの者も混じっていた。香水の匂いをふりまきながら歩いていく彼らは、巡礼たちの間でとても目立つから、神殿を歩いているだけでも覚えてしまう。ベールで顔を隠し、かたわらに侍女を侍らせた、気位の高そうな婦人。目つきの悪い護衛を連れた恰幅のいい男は豪華な胴着にマントを羽織っていて、護衛たちは祈り台の順番を待つみすぼらしい服装の巡礼を押しのけたり追い払ったりしていたが、神殿の誰ひとり彼らをとがめなかった。

 でも、フィシスはかすかに首をかしげただけだ。


「おまえは世界樹の恵みよりも財産や生まれのほうが貴重だと思っているのか? 持てる者のように見えても、かならずしも満たされているわけではない」

 その声は穏やかで、とがめているようには聞こえなかった。


「もし俺の立場になればそれがかなうって? そんなわけない」

「なぜおまえには信仰がないのだ?」

「信仰? だって俺は……」

「おまえは今、この世界を支える存在のかたわらにいるのだぞ。それでいて信の心が起きないとは。その不遜な魂はどこから来た?」

「俺の魂?」


 俺は面食らった。どうして突然、魂の話になる?

 フィシスは小さくため息をつくと、また螺旋階段を下りはじめた。


「ユーリ、異能者はどのように生まれると思う」

「異能者の……生まれ方?」

「異界の魂のかけらを宿して生まれてきた者が持つ力、それが異能だ。宿している魂が完全に近いほど、異能の力も強くなるといわれる。かつて世界樹を救った神子は、完全な魂を持っていたといわれる……聞いているか? わたしの話を」

 俺はうなずいたが、フィシスは不満だったようだ。さっきよりすこし長いため息をついた。


「しかし異能者にはときおりおまえのような者がいる。この世を支える存在に対して、素直な畏敬の念を覚えない者。異能を持っているからには、おまえの魂は世界のはざまを越えてきた。あの巡礼たちには、どれだけ望んでも得られないことなのに」


 俺はフィシスの話を考えたが、どうもぴんとこなかった。魂と異能に関係があるとしても、俺がここに留まって、神官にならなければいけないのはなぜだ?


「……そんなこといったって、俺は神官にはならない」

 フィシスは顔をしかめて舌打ちした。

「いつまでも強情な。わたしがおまえを見い出したことに感謝する日がきっとくる。さもなければ――」


 俺はその先を待ったが、フィシスはふと口をつぐんだ。

「とにかく今日は、おまえもわたしと共に沐浴するのだ」

 どこへ連れていくのかと思ったら、沐浴だって?

「……この下で?」

「ああ」




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?