俺の父親は疫病を逃れてシャロヴィに流れてきたよそ者だった。ずっと北の、イスキグアの生まれで、俺とおなじ薄い色の髪で、灰色の目をしていた。村にたどりついたとき、父親が持っていたのは袋いっぱいの書物だけだったという。そして村長の一族の娘だった俺の母親と恋に落ち、俺が生まれた。
俺は父親が建てた村はずれの小屋で生まれて、両親が死ぬまでそこでくらした。お腹いっぱい食べられるのは年に何回かの特別な日だけだったが、今思うと幸福な毎日だった。なにしろそれまで、自分が幸福だとか不幸だとか考える必要もなかったのだ。
両親が死んでからはそうはいかなくなった。母親は村長を頼れと俺にいいのこしたが、小屋にやってきた村長は俺の父親を魔物の手先と呼んで、父親が残した本を焼いた。俺には情けをかけてやるといったが、それは村長の家で好き勝手に扱われるということだった。
俺はどうして、さっさと村を逃げ出さなかったのだろう? もしかしたら俺は、これは何かのまちがいで、いつか正されると信じていたのかもしれない。
俺は父親の本を一冊だけ隠し持っていた。それはイスキグアの文字で書かれていたが、俺は読み方をすこしだけ教わっていたから、ひとりでいられる時に、指で追いながら少しずつ読んでいった。他の人間とは話さないようにして、わざと、馬鹿でのろまだと思われるようにふるまった。
おかげでいろいろ嫌な目にもあったが、頭が切れると思われるよりその方がましだったのだ。見くびっている相手に対して、人間は警戒をゆるめがちになる。俺はこっそり貨幣を貯めて、いつか時が来たら村を出ようと思った。
だがその「時」は、俺が思っていたようにはやってこなかった。
「ユーリ」
ハッと我に返るとジェンスがいて、俺に串を差し出している。
「もちろん俺のおごりだ」
その顔がとても真面目くさっている気がして、俺は妙におかしくなった。
「そうだな。俺はおまえの恩人だから」
冗談のつもりで笑いながらいったら、ジェンスはまた真剣にうなずく。
「その通りだ」
俺は串に刺さった肉切れにかぶりついた。馴染みのないスパイスがつんと鼻をつき、脂身が甘く柔らかく口の中で溶ける。
村ではずっと、スープの出しがらの肉を鍋の底からこっそり拾い集めて食べていた。こんなふうに味のする肉を頬張っているなんて、奇跡みたいだ。
夢中になってかたい筋をしゃぶっていると、ジェンスがじっと俺を見ているのに気づいた。
「なんだ?」
俺は自分のふるまいがおかしいのかと不安になった。ジェンスはあわてた顔で目をそらした。
「な、なんでもない」
「俺、村にいた時はめったに肉を食べられなかったからさ」
「あ、うん……なんでもないんだ。その……」
「だからなんだ?」
「そこ、垂れそうで」
ジェンスの指が伸びてきて、俺のあごをさっとかすめて離れた。肉汁が胸に落ちそうになっていたのだ。そして肉汁で汚れた指を舐めた。
なるほど。俺も真似をして指を舐めたが、何気なくジェンスをみると、また驚いたような顔をして目をそらした。
いったいどうしたのだろう。
心配になった俺は服を見下ろし、染みがないことをたしかめてほっとした。今着ているのはフィシスにもらった侍者の服だから、汚したらきっと何があったのか聞かれるだろう。それにジェンスに会ったと知られたら、何を話したか根掘り葉掘り聞かれるかもしれない。
俺はフィシスが何を考えているのかさっぱりわからなかった。俺に〈樹領〉の様子を見せ、毎日連れまわしているのも、こうして俺を自由にさせているのも。こうすれば俺が自分から、神官になりたい、異能の修行をしたいと思うようになる、彼はそう考えているのだろうか?
(おまえは他の子供たちとはちがう。彼らの修行は芽生えたばかりの異能を育てて大きくすることだが、おまえは自分の力に手綱をつけて、乗りこなさなければならない)
そんな話も何度か聞かされたが、俺にはなんの実感もわかなかった。
俺にもともと力があったのなら、どうして両親が死ぬ前、十歳になる前に神殿に見いだされなかったのだろう? そうすれば俺はシェルヴィで、魔物の前に置き去りにされることもなかった――
俺は小さく首を振った。あの時のことは思い出したくない。
きっとジェンスが魔物に襲われたとき、俺が何も考えずに飛び出していったのは、あのときの恐怖を覚えていたからだ。さもなければあれ以来、俺の頭の中に浮かんでくるばらばらの、不思議な記憶のせいだろうか? 俺のこれまでの人生とまったく関係ないのに、たしかに俺のものとしか思えないばらばらの思い出。それともこれも「異能」のひとつなのだろうか?
俺は自分がいるべき場所へ行きたい、帰りたいとずっと思っていた。もしもそこにたどりつけたら、俺にはすぐにわかるはずだ。たどりつけなければ、俺はきっとまた、奴隷も同然になってしまう。
フィシスが何を考えていようと、俺は神殿の人間じゃない。あそこは俺がいるべき場所じゃない。