「待ってくれ、ユーリ!」
その声は混雑の隙間をぬって聞こえてきた。でも俺は参道をはやく離れたい一心だったから、誰かほかの「ユーリ」を呼んでいるのだと思った。こんなところで俺を呼びとめる人間なんかいるはずがないし、自由時間を無駄にしたくなかった。
俺は参道の柵をのりこえ、横の小路に飛び下りた。この何日か、午後は参道を通って〈樹領〉を抜け出し、ライオネラの南側をうろついていたのだ。やっと覚えた道を早足で行きかけたら、また後ろから「ユーリ」と聞こえた。
まさか、呼ばれているのは本当に俺なのか? そう思ってドキッとしたときだった。声の主は行く手をふさぐみたいに俺の前に回りこんだ。
「探したんだ。もう一度会いたかった」
ライオネラの北半分、神殿に属す者しか入れない領域は〈樹領〉と呼ばれる。俺はこのことを何日か前に知ったばかりだ。
逃亡するのに失敗したあの日から、俺はフィシスの侍者ということになったらしい。フィシスはボサボサになっていた俺の髪を切り、新しい服や履物、櫛などの小物をくれた。この数日、俺はフィシスの部屋の、ふたつある寝台のひとつで寝起きして、彼の身の回りの雑用だとか、命令されたことをやっている。
フィシスは毎日午後になると午睡をとり、そのあいだは自由にしていいといった。〈樹領〉の外に出てはいけないとはいわれなかったが、道は教えてくれなかった。
俺は厨房や、神殿のあちこちにいる下働きから道を聞き出そうとしたが、近づこうとするとなぜか逃げられてしまう。仕方なく参道を通って街へ行くことにしたが、巡礼は行きも帰りもやけにのろのろと歩く。彼らについて歩いてイライラしないために、途中で柵を乗り越えればいいとわかったのが昨日。
そして今日、こいつが目の前にいる。
「俺はジェンス」と彼はいった。
肌は日焼けして浅黒く、髪は黒い。背丈と肩幅は俺より一回り大きくて、俺の前に回りこんで立ちふさがるところは故郷の村にいた嫌なやつを思い出させた。でもあいつらとちがって褐色の目は真剣だったし、すっと鼻筋の通った顔立ちは感じがよかった。
「魔物が出た時、街道で――」
「あれは俺じゃなくて、フィシスがやったんだ」
俺はあわててジェンスをさえぎった。本当は俺の異能が彼を助けたとしても、フィシスはあのとき集まった人々にそうは告げなかった。それに俺自身だってあのとき自分が何をやったのか、本当のところがわかっていなかったから、フィシスに押しつけてしまいたかったのだ。
ジェンスは落ちついた目で俺を見返した。褐色の眸は穏やかで、何となくほっとさせられるところがあった。
「それでも礼をいいたかった。俺はもうすこしで死ぬところだったとアルコンに聞いたから……」
「アルコン?」
「傭兵団の退魔師だ。だから……ありがとう。本当に感謝する」
ジェンスはまっすぐに俺をみつめ、真面目な声でいった。俺はちょっと居心地が悪くなったが、胸の奥がふわっと暖かくなるのを感じた。親が死んでからというもの、こんなふうに俺に正面から話しかけてくる人間なんて、誰ひとりいなかったのだ。
「……だったら、ここで会えてよかったな」
俺はなんとかそう答え、踵を返そうとした。
「じゃあ、俺はもう行くから」
「どこに?」
間髪入れずにジェンスがたずねた。
「街のどこかに用があるなら、そこまでつきあいたい」
「……用というか……街を見て回ってるだけだ。暇な時間は今だけだから……」
俺は口ごもった。どうしてこいつは俺について来ようとするんだろう? ジェンスは俺をじっとみつめて、続く言葉を待っている。
もう何年も、こんなふうに俺の話を聞こうとする人間なんていなかった。村長の家では口を開くたびにひどい目にあったものだ。フィシスはちがうのかもしれないが、いまだに得体が知れない。
でもこいつは俺とたいして年も変わらないようだし、あいつらとはちがう感じがする。
「……それなら、俺と来る?」
ジェンスの目がぱっと輝いて、口元がふわっとゆるんだ。やけにいい笑顔だと思った。
「俺は拾われ子だが、養父はエオリンの会計係をしている。だからずっと傭兵団で育った」
「すごいな。俺はただの田舎者だよ。子供のころに親が死んで、ずっと村長の家にいたんだが、村の境界に魔物が出たのがきっかけで……ここに連れてこられたのさ」
ジェンスと並んで歩きながら、俺はきょろきょろあたりを見回すのをやめられない。道の両側には屋台がずらっと並び、そこらじゅうからいい匂いが漂ってくる。ジュウジュウと肉を焼いたり揚げたりする音が聞こえるし、きれいな焼き目のついたパンや飴をかけた果物がある。見ているだけで唾がわいてくる。
履物の底に貨幣を隠していたが、使うべきではないとわかっていた。ここを離れるときに必要になるからだ。でもジェンスが隣にいなかったら、誘惑に負けてしまったかもしれない。
「ユーリは神殿でどんな役目を?」
「俺はべつに、正式な神殿の人間ってわけじゃないんだ。一応侍者ってことにされてるけど、誓いを立てたわけでもないし」
「それなら俺もおなじだ。傭兵団で育っただけで、正式の団員じゃない」
「じゃあおまえは毎日、何をしているんだ?」
「馬を馴らしたり、養父の仕事を手伝ったり、武術の稽古をつけてもらったり……そんなところだ」
いつのまにか俺はジェンスと話すのに夢中になって、屋台の誘惑を忘れていた。にぎやかな街路をしばらく回ったあと、俺たちはその辺の階段に並んで座り、そのまま話し続けた。
「手伝いって、養父は会計係なんだろう?」
「ああ。読み書きと計算は父に教わった」
「すごいな。俺は親が生きていたときにすこし教わっただけだ」
「神殿では何をしているんだ?」
「今は……神官のフィシスの身の回りの世話だ」
俺はこの数日の暮らしについてジェンスに話した。朝起きると、厨房に走ってフィシスの食事を運んだり掃除をしたりし、そのあとはフィシスに連れられて〈樹領〉を回る。
そのあいだ、ひっきりなしに命令されて色々な雑用をこなすのだが、実をいえば何のためにやっているのかわからないこともあった。フィシスの〈祈り〉を離れたところから目をそらさずに見ていろという命令も、そのひとつだ。
「神殿に来る前は?」とジェンスが聞いた。
「辺境の小さな村にいたからな。おもしろいことなんか何もないところさ。それよりジェンス、おまえは傭兵になるのか?」
シェルヴィの暮らしについてはジェンスに話したくなかった。ここへ来る前に起きた出来事についても。今の楽しい雰囲気をぶち壊しにしたくない。
だがジェンスも、俺の質問を聞くとちょっとだけ間をおいた。
「俺はそのつもりだ。でも団長はまだ若すぎるといって、入団の誓いをさせてくれない。十六じゃ早すぎるらしい」
「十六? おまえも十六か」
「ユーリも十六歳?」
「ああ」
俺たちはちょっとのあいだ黙った。それからジェンスが目をあげて、街路の方を見た。
「あの肉串、うまそうじゃないか?」
「……俺もそう思うけど、でも……」
ジェンスはさっと立ち上がった。
「ここにいてくれ」
ジェンスはすばやく雑踏を抜けて走っていく。しなやかな身のこなしはあの日疾走していた馬を思わせた。俺はぼうっとその背中を眺め、傭兵団の暮らしを想像しようとした。正式な団員じゃないといったが、きっとジェンスは自分の剣を持っているんだろう。俺も剣が使えたら、シャロヴィであんな目にあわずにすんだのだろうか?