石畳の道の左右からトントン、カンカン、と音が鳴り響いている。
ジェンスは歩きながら耳をすまし、いくつかの音を聞き分けた。甲高く響くのは鍛冶工房のハンマーだ。木工所からは釘を打ったり鋸を引く音が聞こえるし、規則正しくパタンパタンとつづくのは織機の音だ。
話し声はほとんどしない。聖地ヘルレアサの丘を中心にして、神殿都市ライオネラの南西は職人の街である。巡礼や商人でいつもにぎやかな東や南の街区とはまったくちがう雰囲気だった。
「おい、ぼうっと歩くんじゃねえぞ」
ハッチェリが背中をバシッと叩いたが、ジェンスはまったく動じなかった。首を曲げてニヤッと笑いかけると、小柄な傭兵は目を向いて「ちっ、生意気になりやがって」とぼやく。
副官のタラットが振り向いて笑った。
「チェリ、ジェンスはもうその程度じゃびくつかないよ」
タラットはハッチェリより頭ひとつ背が高い女で、エオリンの副団長だ。頬骨の高い美人で、赤い髪を長い三つ編みにして背中に垂らしている。たいていの新兵は一度タラットに惚れるが、騎馬訓練でぶっ飛ばされるうちに恋心は消えてしまい、怖れ敬うようになる。
ハッチェリは鼻を鳴らしてジェンスをみた。
「まだガキじゃねえか」
「おやおや、どんどん育ってくから嫉妬してるんだな。だけどジェンスだって、いつまでもあんたに可愛がられてるわけにいかない」
「目が裏返ってんじゃねえか、タラット。俺がいつジェンスを可愛がったって?」
「何いってる。チェリはジェンスのおっかさんみたいなもんなのに。な、ジェンス?」
タラットはわざとらしくジェンスに問いかけた。ハッチェリをからかいたいだけとわかっていたから、ジェンスは黙って首を横にふる。
「いつまでも子供じゃいられないからな」
タラットがそういいながら小路を曲がった。ふたりはその先にある鍛冶屋に武具の調整を頼んでいたのだ。ハッチェリが一緒に行くかと聞いたので、ジェンスはよろこんでついてきたのだが、タラットはハッチェリのこんなところを「おっかさん」と呼んだのだった。
もっともジェンスにとって「おっかさん」という言葉はぴんとこないものだった。何しろ、母親というのがどんなものか知らない。
鍛冶屋の親方は仏頂面だった。どうやら、タラットの注文がなかなか厄介なものだったらしい。とはいえ金払いのいい傭兵を嫌っているわけではなく、しまいにタラットとハッチェリを座らせて武具談義をはじめた。
ジェンスは立って話を聞いていたが、徒弟の少年が重いバケツを持ってうろうろしているのをみると居心地が悪くなって、外に出ていることにした。ハッチェリに目で合図して路地に出ると、河岸の方から男たちの掛け声が聞こえてきた。船着き場からここまで荷を運んでいるのだ。
神殿都市ライオネラは、世界樹と大神殿のあるヘルレアサの丘を中心に広がっている。西と北はティルコ河に接し、街道に接する南西から東の部分には壁が立って、東門、南門と呼ばれるふたつの門がある。
ライオネラの北半分は〈樹領〉と呼ばれる領域で、ここに入れるのは農夫や下働きもふくめ、神殿に属する者だけだ。来訪者が許可なしに立ち入れるのは丘の中央にある大神殿まで。
だが〈樹領〉の様子は大神殿のテラスから眺めることができる。薬草園や果樹園もある、楽園のような風景だという。
丘の南側は切り立った崖になっていて、街区から大神殿までの参道は斜めの橋になっている。巡礼は杖をつきながらそこを昇っていくのだ。
ジェンスは河岸へ歩きはじめた。神殿都市ライオネラのにぎわいはティルコ河の水運にも助けられている。南門は河と街道がもっとも近く接する南西の方角にあって、今日ジェンスたちはここを通ってライオネラに入った。
巡礼と商売人が多い東門とちがい、南門の周辺は職人や人足が目立つ。職人の徒弟だろうか、ジェンスとあまり変わらない年頃の少年もいた。薄色の髪をみかけるたびにジェンスの心臓は大きく跳ねた。
理由はわかっている。あの青い目の少年かもしれないと思ってしまうからだ。
もう一度、あの青を見たい。
自分が強くそう願っていることに気づいて、またどきりとする。
(おまえはものすごく幸運だった、ジェンス。神官に感謝なんざしたくないが、おまえを殺さずにすんで、本当によかった)
退魔師のアルコンがジェンスに告げた言葉だ。魔物に襲われて落馬したあの日から五日がすぎていた。
あの手の魔物はとりついた相手に憑依してしまうため、手遅れになればとりつかれた人間ごと斬って浄化するしかないのだとアルコンはいった。
(神官がどんな技を使ったのかはわからんが、俺にいわせりゃ奇跡だ。それにしても、あんなところに魔物が出るなんて妙だが。しかも……)
あの日、アルコンはまだ何かいいたげだったが、団長のクエンスに呼ばれて行ってしまった。それでもジェンスの幸運は傭兵たちのあいだにすぐ広まって、テントには傭兵たちが次々にやってきてはジェンスの手に触れていった。
こうして幸運の分け前にあずかるのだ。ちょっとしたことが生死の分かれ目になると知っているので、傭兵は幸運のまじないを好む。
だがジェンスは今も、あの日のことを単なる幸運とは思えなかった。幸運とは身軽な突風のようなもので、あっという間にいなくなってしまう。
でもあの日、あの青い目を見た時にジェンスが感じたのは、一瞬で過ぎ去って忘れるようなものではなかった。
もう一度会えるといい。名前も覚えている。あの神官は彼のことをユーリと呼んだ。