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第3章 ユーリ――異能の手綱(前編)

 フィシスは痩せた外見からは信じられないくらい力が強かった。

 つかまれた手首が痛くてたまらないのに、俺は振り払うこともできない。しかも長身だから、ついていくために俺はほとんど小走りになった。まわりには人だかりができて、フィシスが進む方向だけ道があいている。これじゃ逃げ出すなんて無理だ。


 東門をくぐってライオネラに入ると、大通りはあいかわらず巡礼たちでごった返している。だがフィシスは大通りには行かず、門の横の衛兵に軽くうなずいて、すぐ横の小路に入った。半分引きずられながらついていくと森と街を分ける壁につきあたったが、俺が夜明け前に乗り越えたところとはぜんぜんちがった。その壁には絵が描かれていた。世界樹、飛び立つ鳥、空から降りてくる小さな人、それに大神殿の印。

 フィシスは片手で俺の手首をつかんだまま、もう片手で襟もとを探って、取り出したものを印に差しこんだ。


 歯車が回る音がして、壁が縦に割れたように見えた。フィシスは平然と壁を押し、俺の手首を引いたまま聖なる森の中に入った。扉が閉まってからやっと、俺の手を離す。


「おまえはここを抜けたのだな」

「俺はこんなところ通ってない。あっちで壁を乗り越えたんだ」

「質問したわけではない」

 フィシスはそっけなく答えて木立ちのあいだの石段を上りはじめた。何段か上ってから俺がついてこないことに気がついて、こっちを振り向く。


「何をしてる、ユーリ。早く来なさい」

「さっきのは……あんたがやったのか?」

 見下ろしたフィシスの目に呆れた表情がうかんだ。

「やはりわかっていないのか」

「何を?」


 俺は聞き返したが、声に力が入らない。フィシスが何かいったが、よく聞こえなかった。一歩も動けないまま突っ立っていると白い神官服が引き返してきたことだけがわかった。でも頭の芯がくらくらして、自分がどっちを向いているのかもわからない。見えるのは白と土の色と木の葉の緑だけだ。色は小さな丸いつぶつぶになり、そのあいだを黒いものが塗りつぶしていって、しまいに何もみえなくなった。





 気がつくとやけにふかふかしたところに横になっていた。フィシスの顔がすぐ近くにあってびっくりする。

「悪かった。もっと早く気がつくべきだった」

 いきなりそんな言葉が聞こえて、俺はまたびっくりした。


「気がつくって、何に?」

「おまえがこれまでろくな暮らしをしてこなかったということだ。力の制御もできないのにさっきのように爆発すれば、倒れるのも当然だ」

「爆発? でもあんたは、俺を通してどうとかって……」

「制御されない異能を野放しにしていると思われたら困るからだ。退魔師がいたからな」


 俺はとまどったが、フィシスはそれ以上何もいわずに俺の手首をとった。さっきのように痛いほど握るのではなく、指で撫でるように触ってから離す。

「起き上がれるなら、そこにスープがある」


 スープ? そういえばいい匂いがする。ところがふかふかの寝具に腰が埋もれて体を起こせない。フィシスが手を貸してくれてやっと起き上がり、自分が立派な部屋にいることに気がついた。床にはきれいな色の敷物が敷かれていて、壁のあちこちに丸いガラスの窓が嵌っている。


 村長の家には同じようなガラスの窓がひとつだけあって、来客があるたび自慢していたものだ。でもいつも曇っていたから、光はほとんど入ってこなかった。この部屋の壁に嵌めこまれたガラスはぜんぜんちがって、明るい光がさしこんでくる。

 大きなベッドがふたつ並べて置いてあり、俺はその片方に寝ていた。フィシスはベッドの端に座っている。すぐ横の台にスープの椀と水差しがあった。俺が椀に口をつけると、フィシスは眉をひそめながらいった。

「すこしずつ飲みなさい」


 実際、ゆっくり噛みしめるようにしなければ飲めなかった。口に入れる前はいい匂いがしたと思ったのに、なぜか味がわからなくて、一口飲みこむたびにくたびれてしまうのだ。途中で椀を置きたくなったが、フィシスがにらんでいる気がしてできなかった。


 ようやく全部飲み干すと、フィシスは俺の手から椀を取り上げた。

「なぜ逃げようと思った?」

「なぜって……」

「異能をあらわした者は神殿が迎え入れる。修行をおさめて神官になれば、故郷の誇りとされるものだ」

「それは他の子供たちの話じゃないか。俺は奴隷にするために連れてこられたんだろう」

「誰がそんなことを」

「誰って……俺がここにいるのは、村を通りかかった神殿の人間に村長が押しつけたからだ。俺は魔物に喰われかけたのに、なぜか助かった。でもそのあとちょっとおかしくなって……だからあいつらは俺を厄介払いしたかったんだ」

「魔物に喰われかけて助かった、とは?」


 フィシスがたずねたが、俺は答えられなかった。村の境界に連れていかれて、魔物に遭遇したときのことをはっきり思い出せないというのもあるし、あれ以来前触れなく頭の中に浮かんでくるさまざまな事柄について、なんと説明すればいいのかもわからなかった。見たこともないのによく知っている風景、そこで生きていた俺の記憶、ばらばらになってつながらない数々の出来事。


 たぶんあれ以来、俺の頭はおかしくなっているのだ。


 フィシスは黙りこくった俺をみていたが、やがて「無理に言葉にしなくていい」といった。

「覚醒は説明できないものだ。おまえのように年がいっていればなおさらかもしれない」

「覚醒?」

「異能の力をあらわすことだ。わたしも十歳をすぎて覚醒した者に会うのはおまえが初めてだ。おまえをここに連れてきた者は村人の話を信じなかったのだろう。出身は?」

「シャロヴィ」


 フィシスは意外そうに俺をみつめかえした。

「両親は?」

「俺が十歳のとき死んだ。病気で」

「両親の出身も?」

「母さんは。父さんはよそ者だった。イスキグア生まれだといってたけど」

「なるほど、その髪と目は父親譲りか」

 フィシスはしげしげと俺を眺めた。


「さっきはなぜあんなことをした」

「さっき?」

「もう忘れたか? おまえの異能だ」

「あれは……」


 俺は街道での出来事を思い出そうとした。ものすごい勢いで疾走する馬、どさりと道に転がった人影、あの黒いもの。

「……わからない。いつのまにか飛び出していたんだ。そうしなければいけない気がして」


 フィシスは探るような目で俺をみつめていたが、やがていった。

「おまえは良いことをした。あとすこし遅れたら、あの若者ごと斬らなくてはならなかった。あの場にいた誰かがその決断を下したはずだ」

「……なんだって?」

「おまえは彼の命を救ったのだ。傭兵団エオリンの者だろうが、おまえとたいして年が変わらないように見えたぞ。きっと良い兵士になる。魔物の恐ろしさを知っているなら、神殿に仕えることも……」

「俺は何をやったんだ?」

「おそらく闇の亀裂にあれを押し戻したのだ。世界樹に祈る我々はもとより、退魔師もそんなことはしない。力を消耗しすぎる」

「あんたは俺が逃げたことに気がついて、あそこまで捕まえにきたのか?」


 フィシスはかすかに眉をあげた。


「わたしは根に祈りを捧げていて、闇の亀裂が閉じたのを感じたのだ。ユーリ、聞きなさい。わたしはおまえを奴隷にはしない。だがおまえはここで、力の制御を学ぶ必要がある」





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